気よく、各自の気分で読んで、むこうから解説し内容づけてくれるという、特殊な境遇の便宜に馴らされていた。フランスでは、この一部の慣例が通用しなかった。言葉はそれが言葉として有する意味以外には通用しなかった。カッと目を見張って神経の弱い対手を習慣的な言葉の呪文で立ち竦《すく》ませることが出来なかったと同時に「厨房日記」の作者自身も、気持よく対手の麻痺の中に自身を憩わすことも不可能であった。義理人情の合言葉が、今日の現実の裡で何かの支えとなり得ているものならば、梶は何のために寝床の中で「あーあ、もとの木阿彌か」と長大息する必要があるであろう。暗夜、迷子になった息子を探しに出て歩きながら、「ふと自分も今自分の子供と同じような目にあっているのではないかと思われ」そのような有様に現代インテリゲンツィアの苦痛の姿を見る必然があるであろう。
 現代の知識人は一つの世界苦につつまれている。然し、それは、知性を否定せられることを承認し得ないところから発生しているものである。悪気流は、人間らしい知性の開発と光彩とを圧しつつもうとしている。それに対して抗《さから》いつつ、或る必要な力をもっていないという自覚に
前へ 次へ
全20ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング