苦しんでいる、そこから現代のトスカが湧くのである。知性の喪失を、梶が謳歌していることに対して、もし、苦しんでいる知識人からの祝詞や花束がおくられると予想すれば、それは贈りての目当てにおいて大いにあやまったものと云わざるを得ない。従来馴致された作家横光の読者といえども、知性を抹殺する知性の遊戯を快く受ける迄に、虚脱させられていないのである。
横光氏は、自身の文学的教養として従来フランス文学の伝統を汲んで来たと思われる。純粋小説云々のことも、あながち、スタンダールの言葉をアンドレ・ジイドが「贋金つくりの日記」の中で引用している、その言葉の模倣のみではなかったであろう。動いたり、飛びついたり、突ころがしたりすることの絶対にない活字に、印刷されているフランスやフランス文学[#「印刷されているフランスやフランス文学」に傍点]は、ジイドやマルローまでを理解し得ているかのようであっても、刻々の実際に生きて、呻いて、血を流して、しかもそこから新しいフランス文学を産もうとしているなまのフランスには堪え得なかった一人の作家をここに見るということは、無限の感慨である。「血眼になって騒いで来たヨーロッパの文
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