身をへだつるのみこそおろかなれ
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と二三度うたいすましたので、人々はみんな可哀そうに思った。入道相国は「よくうたった。又舞も見るのだけれ共一寸さしつかえが出来た。これからは呼ばないでもふだん来て舞をまい、今様でもうたって仏をなぐさめてくれろ、ヨイカ」とおっしゃる。義王館にかえっても障子の内に身を伏して泣くよりほかはない。
 親の云いつけにそむくまいと思って又苦しさをしのんでいやな所に行けば坐敷さえ下げられた苦しさ、なお此の世に生きて居たら、又、此のような苦しい事を見ききしなければならないだろう。こう云うついでに火の中か水の底へでも入ってしまいたいと悲しんだ。姉が身をなげ様と云うと妹の義女も身をなげ様と云うので母の閉《トジ》は「ホンニうらむのももっともだけれ共この間までは入道殿はそれほど情知らずの人とは一寸も思われなかったんで、いつもいつも教えさとしてやった事が今となって見ればほんとうに悪るかった。姉が身を投げると云えば妹も身をなげようと云って居るのにこの年とった私一人のこってどうしたらいいだろう。だから私も一所に身をなげる外しかたがない。もしまだ死ぬ時も来ない親に身をなげさせるのは五逆罪であろう。ミダ如来は西方浄土を荘厳し一念十念をもきらわず十悪五逆罪をもみちびこう」と云う。
 義王「ほんとうに死ぬ時も来ない親に身を投げさせるのは五逆罪うたがいがない」と云って身をなげるのを思いとどまって二十一で様をかえてしまった。妹の義女も一所にと約束した事だから十九だのに様をかえてしまった。母の閉《トジ》は「あんなに盛の二人の娘が様をかえるの世の中に私が年をとった白髪をつけて居ても何にもならない」と云って四十五で様をかえてしまった。三人は嵯峨の奥の山里に念仏して往生必定臨終正念と祈った。こうやって居て春がすぎて夏も来た。秋の風が吹き初めると星の沢山の空をながめながら天を渡る梶の葉におもう事をかく頃となった。ものを思わない心配のない人でさえもくれて行く秋の夕べの景色はかなしいだろう。まして心配のある人の心の内がおしはかられて可哀そうである。西の山の端に入りかかる日を見ては「あすこいらはきっと西方浄土でしょうからいつか私達もあすこに生れて心配なしにすごすことが出来るでしょう」それにつけても昔の事の忘れられないでいつもつきないで出るのは涙許りである。日は段々たそがれたので三人の人達は一つ所にあつまって仏前に花や香をそなえあかりをほそほそあげながら念仏して居た所に閉じ塞いだ柴のあみ戸をホトホトとたたく音がした。三人の人達は念仏をやめて「これはきっと私達のような無智文盲な物の念仏して居るのをじゃましようと云って魔の来たのにちがいない。しかしもしもそんならばあんな竹のあみどをおしあけて入る事はぞうさないでしょうに、早くあけよう、助とたのみにするのは仏一つ、たとえ命をとられるとも、この頃たのみ奉る念仏をして心しておこたってはいけませんよ」と云って三人は手をとりあって閉めきった竹の編戸を思いきってあけると魔なんかではなく思いがけない仏御前が出て来た。義王は走り出て仏の袂にとりついて「こんな所でお目にかかるのはほんとうに夢の様でございます事、昼でさえも人のまれな山里へ今|何《ど》うして来らっしゃったのでございますか」と云ったらば仏御前「今更、あの時の事を云えば新しい事の様ですけれ共又、申さなければ考えて居ない様ですから申しますよ。元から私は推参のもので望のない仰をこうぶって遠く出たのを貴女の御口の御かげで召されたとは云え、すぐに貴女の御ひまをお出されになった事をうかがって一寸も人の事とは思われずいつか又自分の身の上もこうでしょうと思ったのにまして障子に書いておおきになった『いづれか秋に会はではつべき』と云うのもうなずかれましたが又いつだったか貴女の呼ばれて今様をおうたいになった時坐敷さえさげられた事が心苦しくてもうもう口で云われないほどでございました。あれからあとはどこに居らっしゃるともききませんでしたが上のごろここに居らっしゃると云う事を聞き出して、今の御身がうらやましくて、どうか御暇を下さいませ下さいませと申しても一寸も御許し下さいませんの。どうしようかとよくよく考えて見れば此の世での栄花は夢の又夢のようなはかないもの、たのしんだり栄えたりしても何になりましょう。一度死んだ人の身は又と再びうけにくいもので又仏教に入るにも一度入りそこなえば又入るじきがない、ホッと吐き出た息のまだ入らない内、パッと云う間に死んでしまうのは、かげろうや稲妻なんかよりもはかないものだと思うとどうしても心がとまらないのでどうしようと思って居ると今日の昼頃に思いがけないよい時があったので逃げ出してこのようになってまいりましたんですよ」とかついで居る衣をどけたのを見るとあんなにはなやかに栄えて居た姿とあべこべに尼の姿になって出て来て「日頃の罪はこの姿にめんじておゆるし下さいませネ、もしゆるすと云って下さるなら皆様と同じ庵室で念仏して御一所に後の世の幸を祈りましょうし、まだゆるさないとおっしゃるならばこののちどこへでも足にまかせて迷って行ってどんな岩のかどでも苔の上でも松の様にたおれてしまうまでも念仏してみだ三尊の来迎にあずかりましょうから」と涙をとめどもなく流して云ったので義王「マア、お恥しい、私は貴女の心の底のそれほどまで御きよいのを一寸も知らないで、今日まではこれほどまでお思いになる方とは一寸も存じませんでしたのに、今までの事はみんな浮き世の仕業でございますもの。もう必[#「必」に「ママ」の注記]して人のうらみなんかは思いはいたしません。自分の身のつらさを知るはずだのにどうかすると貴女の事が忘られないで心にかかって今の世も後の世も御仏に仕える事はじゅう分に出来かねるように思われて居りましたのに貴女は何にも後に思をひかれないでとしもまだ十七だと云うのにこの汚れた世をそむいて清い世の中をおねがいになるお心こそほんとうの道心者でいらっしゃいますよ。私が二十一で様をかえたのも人はめずらしい事に云い又自分でもそう思って居りましたけどいま貴女の出家にくらべて見れば事のかずにも入りませんものネ、昔の事なんかなんでもう思うもんですか、サア、みんな一所に行いすましましょうネ」と四人同じ庵室の中に念仏して共に後世の幸をいのったけれ共おそい早いはあったけれ共おしまいには皆同じ様に往生の望をとげたときいて居る。その後入道は仏の行方がわからなくなったので、手に手をわけてさがさせて見たけれ共見つからなかったので浄海は「仏はあんまり美くしかったんでてんぐが取ってつれて行ってしまったんだろう」と云って居た。其の後半年許りたってからそこに居ると云う事が聞き出されたけれ共そんな風になったものを今更と云ってもうたずねさせなかった。それだもんで後白河法皇の長講堂の過去帳にも義王義女仏|閉《トジ》等のが尊霊と一所に書き入れられたと云うことである。

     海の花

 南の国のいつも蒼い色をして居る内海に一匹の人魚が棲んで居ました。その長い黒髪やふくよかな乳房、よく育った白くて長いうでなどをもったその姿はこの海の女王として恥かしくありませんでした。細くそろってたえず銀色の光をはなして居るうろこをしっかりとまとって、赤いさんごの林の間、青こけのむした大岩の間、うす紅の桜海老、紫に光る海魚等の間を黒髪を長く引いて遊んで居る様子はこの内海をかざる花でした。けれども海の王の年を経た海蛇はなぜかこの人魚の陸近く遊ぶことをゆるしませんでした。まだ若い何事によらず血をわかす女人魚はまだ一度も見たことのない陸と云うものをいろいろに想像してはなつかしがって居ました。或る時、春の日の光りの暖かさが海の底までしみ通るような日にこの美くしい女人魚は陸をあこがれながらこの美くしい姿を思うままにうらやませながらとある岩の上に泳ぎつかれた体をやすませて居りました。そのまっくろな可愛い形をして居る瞳をクルリクルリと動かせながら四辺を見て居ましたがフト先を見るとそこには陸の上の人影や草木の色や家の色までがすいて見えて居ました。「オヤ」女人魚は驚きと喜のまぜこぜになった小さい声を出して叫んで自分の目をうたがうようにジッとそこを見つめて居ました。
 自分と同じ名の女と云う名の人間は白や紅や紫のやのうすい衣をまとって二本の足でかるく歩きまわって居たり草はみどりの葉の間に五色の花をつけて家の色はその間に白やかばに春の日光の中に光って居る。そうしたようなどことなくものめずらしい景色はハッキリと人魚のそのつみのないひとみにうつりました。幾年かの久しい間陸にはげしいあこがれをもって居た女人魚はあきることも知らずにそこを見て居ました。まもなく、日は落ちてしまったのでうす黒い中を女人魚はその住家へもどりましたけれどもそのはでやかな女と云うものの衣の色や草木の色などはどうしても忘れることが出来ませんでした。それから日に幾度となくこの岩に身をまかせては外界の様をながめて居ました。始めはただながめて居るだけでその女人魚の心は満足して居ましたけれど今ではどうかして自分も彼の群の中に交って思うように暮して見たいと思い始めた、その思は前に陸を見たいと思ったその思いにも劣らないほどつよいものでした。或日女人魚はこの大した力を持って居る心の虫にそそのかされてズーッと恐ろしがりながらその岩から上へ上へと上って見ました。段々女の衣の色ははっきりとなって草木のみどりの色もあざやかになりまさりました。その色にさそわれるように女人魚は段々早くしずかな波の底からうき上りました。波まにチラッとその白銀のうろこのかがやいた時女人魚の体はもう波とすれすれのところ頭とか美くしいかおはあたたかい日の光にまばゆいほどかがやいて居ました。スーッスーッと渚近くよってその大きな岩のかげに身をひそめて人の群の高いさざめきやかすかなきぬずれの音をきいて居ました。恋によったようにうっとりと魂をうばわれたようにボンヤリとしてその様を見ほれて居ました。高らかに笑う女の声も今まできいたことのないものでしたし、うすい衣の裾のヒラヒラ胡蝶の様になるのも今までは見たことのないものでした。女人魚は美くしさに、うらやましさにその女達の動くように自分も身をもみながらどうぞして人間の仲間に入れるようにとねがって居ました。今まで光線のよわい海の底の中でうす絹ではりつめたように育って来たこの女人魚のはだにはあらわな強い日光はあんまりまぼしすぎ、つよすぎました。女人魚の心は段々ボーッとそして甘い気持になりました。その強い日の光はとうとう海の美しいたとえない花をしぼませてしまいました。
 大きな岩によってうっとりと、見ほれききほれて居るように美くしいしなやかな姿をした女人魚にはもうよんでこたえる魂と云うものがありませんでした。美くしい薄命な海の花はしずかに音もなく散ってしまいました。

     運命の車

 いくら大きな目をあけて見ても見えきれないような大きな一つの車の輪がある。その輪のはじからは大きな恐ろしげなつめたいかぎが出て居る。その中心からつづいた棒を一人の女がにぎって自分の勝手の様にまわして居る。その車はまわるごとに地球の上に住んで居る人間の頭の上を一度ずつきっとかすって行く。そのたんびに人間は知らず知らずに一人ずつぶらさげられて行く、或る時はしずかに順々に引く所から高い所にあげてそしていつまでもそこに手をとめていきなり大変な勢で地面にたたきつけたり又或る時は急に高く急に低くしてもう少しで落ちそうにしてもまだおとさずにまた高くあげて低い所までもって来てソーと地面におく、その車の動くたんびに人間は富んだり貧しかったりして青くなったり赤くなったりして居る。そうしてさんざん動したあげく人間は段々やせてしまいには骨とかわ許りになってしまう。そうすると運命の握権者は「ようやっとこれで一人かたづいた。又このあとがある」と云って車をまわす。

     逢魔ヶ時

 逢魔ヶ時のうすあかりの都大路を若い男女、老
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