遠ざかったしずかな所で念仏するのには一寸もじゃまではございませんがあきもあかれもしないで別れた女に住居を見つけられてしまいましたからたとえ今夜一度だけはこのようにかえしましたけれ共またしとうて来たりするときっと心が動くでございましょう。そうするとこまりますから御暇を申しあげます」と云って泣く泣くそこを出て高野の御山にのぼって法憧院梨の坊と云う所に行すまして居らっしゃった。横笛もそうやって居る時でないから都にかえり様をかえ奈良の法華寺に行すまして居ると云う事をきいたので入道は此の事をきいて大変よろこび高野の山から一首の歌を送られた。
[#天から3字下げ]そるまでは恨みし事どもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき
横笛の返事
[#天から3字下げ]そるとても何か恨まんあづさ弓 ひきとどむべき心ならねば
横笛は思いのつのったためか程なくはかなくなってしまった。それをきいた入道はますます行いすまして居らっしゃったので父も不幸をゆるし、したしい人は高山の御山の聖の御坊と云ってもてなして居るし、もとのみを知って居る人は瀧口入道と云って居た。其後三位の中将が瀧口をたずねて行って会って見ると都に居た時には布衣に立烏帽子衣紋をつくろい髪をなで、あんなに美くしかった男と誰が思うだろう。出家してからは今日始めて御らんになるのだけれ共まだ三十にもならないのに老僧のような姿にやせ衰えてこい墨染の衣に同じ色の袈裟、香の煙のしみ込んだよく行いすました道心者の様子をうらやましく思われた。晋の七賢が竹林寺、漢の四皓がこもったと云う商山ごもりの住居もこの様子にはすぎなかったろうと見られた。
義王
昔は源平の両家が朝廷に仕えて居て、みいつにもしたがわないで朝権を軽んずる者があればおたがいにいましめ合って居たので代のみだれもなかったけれ共保元の乱に為義が斬られ、平治の乱の時に義朝が誅せられたあとは末の源氏があると云っても名許りで或は流れて居る。或は誅せられてしまったので一向平家の向をはる物がないので平家ばかり一人はん昌して何か思って居てもその勢におそれて頭を出す者もないのできっと末になってから何事かありそうに見えた。かように入道相国は一人で天下四海をも掌に握ってしまってからは人の笑や世のそしりなんかにはとんじゃくなく思いはかられない事許りなすった。その頃京洛中に又とないと云われた白拍子の義王、義女と云う姉妹があった。これは閉《トジ》と云う白拍子の娘である。入道は中にも義王を最愛して西八條の屋敷にとめて置かれた。このようなわけなので妹の義女も人々は限りなく重くもてなして居た。そして母の閉《トジ》も入道は大切にしてよい家を作ってやって毎月朔日ごとに米百石、金百貫を車で送って居られたので家の中もとみさかえて楽しい事はかぎりがない。それだもんで京洛中の白拍子は義王の大切にされるのをうらやむ者があれば又そねむ者も沢山あった。うらやむ者は「マア、何と云う義王御前と云う方は幸な御目出たい方だろう。同じ遊びものとなるならばあの方の様にあってほしいものだ。きっとこれは義と云う字を名につけたので此の様にめでたいのだろうから、私もつけて見ましょう」と或は義一とつけるものがある。あるいは義二と、義徳、義福、義寿、義宝なんかとつけた。又、そねむ者は「何で名によったり、文字によったりする事がありますか。マア、――、そうならばみんな義の字をつけてみな栄えるはず、果報はただ何でも生れつきの運ですもの、何と云ったって」と云ってつけないものもたくさんあった。そもそも、我朝に白拍子の始まったのは鳥羽院の御時に島の千歳、和歌の前と云う二人が舞い始たのが始めだとか。始は水干に立烏帽子白いさやまきをさして舞ったもんで、男舞と名づけられたので中比から刀、烏帽子をよして白い水干許りでまったので白拍子と名づけられたのである。そしてこうやって義王がここにすえられてから三年目と云う春の頃に又仏と云って優しい美しいあそびものが又出て来た。この女は加賀の国の者と云う事である。この頃京洛中の上下の人は昔から多くの白拍子はあったけれ共、この様な人はまだためしがないと云ってこぞって此をもてなして居た。或る時仏御前が云うには「私は天下にかくれない白拍子だと云っても、今さかえて居らっしゃる平家の太政入道殿へ呼ばれて行かないのが不平でしようがない。遊者の推参はあたりまいの事でかまわないのだから」と或る時仏は車に乗って西八條の館へ参った。侍人が入道の所へ来て「仏と云って美しい遊びものがまいりました」と云うと「何しに来た、元は遊者は人に呼ばれて来るものだのに、呼びもしない所に来るとは、その上義王が居る間は神と云っても仏と云ってもサアサア早くかえしてしまえ」とすげない仰をうけて出て行くと義王が云うには、「遊び者の推参はあたりまいの事、それに年もまだ若いと聞いて居りますもの、丁度思い立って来たのにすげない御あいさつでさぞ恥かしいでございましょう。又、昔は私も歩んで来た道なんで人事とも思われませんもの。たとえ舞を御らんにならずとも歌をおききにならないでも、お呼になっておあいになった上おかえしになったならばさぞ有がたいと思うでしょうに。お呼び遊ばせよ」と云ったので「そんなら、および」と呼びかえさせてあって「ナント、仏、今日は御目通はするはずでなかったけれ共、義王が何と思ったのかしきりに云うので呼んだのじゃ、このように又呼ばれて見れば声をきかせないのも残念だろうから何でもかまわないから今様を一つうたえ」と云うので仏は今様を一つうたった。君を始めて見る時は千世も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀オカにつるこそむれ居て遊ぶめれとこれを二三遍うたいすましたんで人々がみな感心してしまった。入道相国も面白そうに「おう、お前は今様は上手だったか。今様が面白いならば舞もきっと面白いだろう、何でも一つ」と鼓うちを呼んで一つまわせる。此の御前は年も十六の花の蕾のその上にみめ形ならびなく美くしゅう、髪の様子、舞すがた、声はよく、節も上手なので、何でまいそんじる事があろう。心も飛んで行きそうにまった。見て居た人はだれもおどろかないものはない。入道は舞姿をめでになったと見えて仏に心をうつしてしまわれた。生れつき此の入道と云う人はせっかちだもんで舞の終るのがもどかしく思われたと見えて始めの和歌一つうたわせまだ終りのうたのおわらない内に仏を抱いて内に入ってしまわれる。仏御前の云うには「私はもとより推参ものですげない御言葉をいただいてかえりかけたのを義王御前の御口ぞえでようやく御呼び下さったのでございますもの、御心にかないましたなら又御呼びいただいてまいりましょうから今日はただおいとまを下すっておかえし下さいませ」と云うと入道「ナンデ、かまうものか、何でも浄海が云うままになって居ればいいんだから、だけれ共、義王に遠慮するならば義王の方をひまやろう」と云えば「ソレソレ、それがいやなのでございます。私と一所に居るのでさえもどんなにか恥じ、半腹痛く思うのにそんなに義王御前を出そうなんかとおっしゃってはいよいよでございます」と云ったけれ共何とも云わないで「義王、早くかえれ」と云う使が度々三度まで来たので義王少しも身を休めてなんか居る時でないと部屋の内をはき、ごみをひろわせ、見っともない物なんかをすててもう出て行く様にきまってしまった。前かたからこんな事はあろうと思って居たけれ共さすがにきのう今日の事と思って居なかったので此の三年の間住みなれた障子の間をもう出るのだから名残もおしく悲しくもあり泣いても甲斐のない涙とは知りながら涙が流れてとまらない。義王は出たけれ共、それでもあんまり名残惜しい、せめてもと又かえって住みなれた障子にこう書きつけた。
[#天から3字下げ]萌へ出づるも枯るゝも同じ野辺の草 いづれか秋に会はではつべき
義王は心を取りなおして車に乗って出たけれ共心はすすまないでも涙許りすすんだので、
[#天から3字下げ]今さらに行べき方も覚えぬに なにと涙のさきに立つらん
とよみながら義王は宿にかえり障子の内にたおれ伏して泣くより外にする事がない。母は此を不思議に思って「どうしたかどうしたか」ときいても返事も出来ない。つれて居る女にきいて始めてそう云う事があったと知った。こう云うわけだもので京洛の上中の人々は「アラ、義王は西八條殿から暇をいただいて出されたと云う事だ。サア、あって遊ぼう」と或は手紙をよこす人、或は使者をよこすものがあったけれ共義王、「今さら面目なくて人にあって遊びさわぐ事は出来ない」と云って手紙をとりあげて見もしなかったからまして使に会ったりなんかする事はなかった。そうこうして居る内にその年もくれ春の頃にもなったんで入道は義王の所へ使をよこして「義王、その後に別に何事もなかったか。仏があんまり退屈そうに見えるから来て舞でもまい、今様でもうたって仏をなぐさめてくれ」と云ってよこしたんで義王はあんまりの事に返事もしない。入道は又「サア、義王、なぜ返事をしないのだ。来ないのならば早くその事を云ってよこせ。入道も返事によっては考えがある」と云っておよこしになる。母の閉《トジ》は「あれ程おっしゃるのにナゼ御返事をしないんですか」「上ろうと思えば今に上りますと申しましょうが行かないのに何と御返事を申しましょう。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都を追い出されるのかそれでなければ命をおとりになるかこの二つにはすぎないでしょうに、たとえ都の内を出されても、どっかには落つく所がありましょう。又、たとえ命をとられても何でおしい事があるもんですか。一度、いやな物に思われて二度とふたたびお目にかかる事なんかあるもんですか」とまだ返事をしない、母は重ね「男女の縁と宿世の縁は今がはじまった事じゃあないじゃありませんか。千年までも末の世までもと契ってもやがて別れる間もあり、又只一寸と思いながら永くはてる人もあり、今世の中で一番あてにならないものは男女の間だと云って居るじゃあありませんか。まして御前達は遊者の身で一日二日呼ばれて居てさえどんなにか有難い事だのにまして此の三年もの間呼ばれて居たのだから、後の世までの思い出にこれにすぎた事はないじゃあないの。呼ぶのに来なければ考えがあるとおっしゃるのは都の内を出される事はあるかも知れないけれ共まさか命をおとりになるほどの事はありますまいが、たとえ都を出されてもお前達はまだ若いからどこに行ってもくらすにはこまらないだろうけれ共私は年をとった身でありながらなれないまずしいくらしをすると思えばそれだけでも悲しいのだもの。只、なんにもおねがいがないから私を都の内で暮す事の出来る様にして下さい。それが私の今生後世の孝行ですから」と涙を流しておっしゃったんで「そんならば行ってまいりましょう」と泣く泣く立ちかけたけれ共一人で行くのも何だか変だと妹の義女もつれて行く。同じ様な白拍子二人、すっかりで四人、一つ車にのって西八條の御館へ行く。入道は、先の内よばれた所よりズット下った所に坐をとって置かれた。「コレはマア何と云う事だろう。そして何のおとがめでこんなに、坐敷さえ下げられて、マア何と云うつらい事だろう。それにつけても今日自分は何しに来たんだろう」と思うと又悲しさがこみ上げて来る。そのけしきを人に見られまいと顔をおさえる袖の下からも涙があまってながれた。仏御前、「ここは先の中御呼入になった事のない所でもございませんもの。ここに御呼び遊ばせ。それでなければ私が出て御目にかかりましょう」と云ったけれ共入道が「何々」と云ってさからうのでどうする事も出来ない。其の後入道があって「どうだネ義王、その後何か変った事もあったかネ。仏があんまり退屈そうだから何か今様一つ歌ってくれ」とおっしゃるのでこうやって来たからには、入道殿の云いつけと云えばどうしてもきかなくてはならないものだと思って落る涙をおさえて今様を一つ歌った。
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月更け風おさまつて後、心の奥をたづぬれば仏も元は凡夫なり、我等も思へば仏なり、いづれも仏性具せる
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