かしいからと袴の腰にはさんで御所にいらっしゃった所が、所もあろうに女院の御前に其の文を落してしまった。女院は此を御見附になって御所中の女房達をおよびになって「今めずらしい物を見つけたが此の文の主はだれかしらん」とおっしゃると皆んな神や仏にかけて「みんなぞんじません」と云った中に小宰相の殿許りは顔を赤くしてそっぽをむいて何ともおっしゃらない。女院は重ねて「御前は、どうかどうか」と御尋ねになったのでしかたがなく「あの通盛の」と許りおっしゃった。女院は前から、そんな事のあるうわさをきいて居らっしゃるのでその文を開いて御らんになると、筆はたっしゃだけれ共いかにもわけの有さうな、よわよわしい筆つきで、
[#天から3字下げ]我恋は細谷川のまるき橋 ふみかへされてぬるるそでかな
女院「マア、是の歌はまだ一度も会わないのをうらんでの歌と見える。マア、心づよい事だ事、なぜおなびきにならないのです。あんまり人の心のつよいのも身をほろぼすものとなるものだのに、中頃に、みめかたち、心ざま世にすぐれて居たときこえた小野の小町と云う人はいろいろ人の云うのをうるさいと見えてたいへん心づよくかまえて居たのでのちには、あの人は心づよい人だからと云うきまりがついたのかかまう人もなくなったので関寺のほとりにすまって往来の民に物をもらい、破れあれたあばらやに住み野辺に生る若菜、水のきしに生る根せりなんかをつんで露の命をささえたと云うためしもあるものですもの。もうおなびきなさい。私が自分で返事をしましょう」と女院から御返事があったとか云う事、
[#天から3字下げ]たゞたのめ細谷川の丸木橋 ふみかへしては落ちざらめやは
三位の君は有がたくも女院から小宰相殿をたまわって此の上ないものと寵愛して居られたが又小松殿の次男の新三位の中将資盛がまだこの頃少将であって節会に参内して見初めてさまざまにしたけれ共なびく景色もなかった内に三位殿の上になってしまったと云う話がきこえたので右京の大夫の局と云って中宮の御そばに仕えて居た資盛の北の方がそねましい心にでもなったのか一首の和歌を送られた。
[#天から3字下げ]いか許り君なげくらん心そめし 山の紅葉を人にとられて
資盛の返事には、
[#天から3字下げ]何とげに人のおりける紅葉ばに 心移して思ひそめけん
是も中々優美にやさしい事の例である、と云いつたえて居る。みめ形の美しいのは幸の花だと云うとおりで小宰相殿を女院から賜って今度のように西海の旅にまでもつれていらっしゃって、終には死んで同じ道に行かれるのも哀な事である。
内裏女房
又、其と同じ頃三位殿の侍に木工右馬の允《ジョー》正時と云う者があった。或時八條堀河の御堂に御参りに来て守護の武士に云うには「私は三位の中将殿の御やしきに数年召つかわれた侍の木工右馬の允と云う者です。都を御出になる時にも御供して行くのがもっともだと思いましたけれ共何分八條の女院に参って居る身なので弓矢の事などは一寸も存じませんのでおいとまをいただいてここにとどまって居ました。けれ共うそかほんとうか三位の中将殿が都に御出になるのももう一日二日だとかきいて居りました。どうか御情で御ゆるし下さってもう一度御目にかかりたいと思って居るんですがいかがでございましょう」と云うと守護の士は「ナニ、腰の刀さえ置いていらっしゃればかまいませんよ、御やすい事です」と申したので正時はそれならばと腰の物を土肥の次郎にあずけて三位の中将殿に御目にかかる。「オ、そこに居るのは正時か、是へ是へ」とおっしゃれば正時は御側近くへ来て今までの事や、行末の事などを夜中語り明して居らっしゃった。夜が明ければ正時御いとま申上げ出て来る。三位の中将は「ソウソウ、いつか御前にたのんで置いた手紙の主は今どこに居らっしゃるね」とおっしゃるので「院の御所にいらっしゃいます」と申しあげたら「せめて手紙でもあげて御返事でもいただいてそれでも見てなぐさもうと思うけれど」とおっしゃるので「お安い御用でございます」と正時は御答えする。三位殿はななめならず喜んでやがて手紙を書いて御渡しになる。正時がそれをもって出ると守護の武士が「あれはどこへおやりになる御手紙だろう」と云ったので三位殿は「かまわないから見せてごらん」と土肥の次郎に御見せになる。実平は開いて見て「オヤオヤ此は女房の方におやりになる御手紙でしょう、かまいません」と云って出したので正時は宿にかえって其の日一日をまち暮して夜になってすぐまわりのしずかになるのを計って例の女房の住んで居らっしゃる局のやふきのあたりにたたずんで聞いて居ると此女房も三位の殿の事を云い出して泣いて居らっしゃるので正時は、此の御方もまだ三位の殿の事をお忘にならなかったと嬉しくてつま戸をホトホトとたたくと内から「誰か」と云う。「私は三位殿の御使の正時で」と云うと戸をあけられる。あげたその御半紙を開いて御らんになると一首の歌が書いてある。
[#天から3字下げ]涙川うき名をながす身なりとも 今一度のあふせともがな
すぐ返事を書いて正時にお渡になる。正時八條の御堂に行って三位殿にあげると開いて見るとこれも又一首の歌を書いてある。
[#天から3字下げ]君ゆへに我もうき名を流す共 そこのみくづと共に消えなん
三位殿は此の手紙を御らんになって大変に心をなぐさめられる。そのあと、三位殿は守護の武士に向って「もう一度芳恩にあずかりたいのだけれ共どうだろうか」とおっしゃると武士共は「何でございますか」と云ったので「別の事ではないけれ共きのうの文の主にあって死んだあとの事なども云っておきたいと思うのだが」とおっしゃると守護の武士は「一寸もかまいませんから」と云ったので大喜びで正時に此の事をおっしゃると正時はかいがいしく牛車をさっぱりと用意して院の御所に行って此の故を申し上げると女房もあんまり思いがけない事だったので大変喜んですぐに出ようとなさるとまわりの女房達が「マア、かるはずみな事、そんな事はおよしになった方がようござんしょう。まわりには武士共が大勢居るのに見っともないではありませんか」と云いあうけれ共此の女房は「今日会わなかったらいつ会えるか知れないのですもの」と急いで車にのって八條堀川の御堂に行って案内をたのむとおっしゃるので三位殿は、「私のまわりには武士共が沢山居てあんまりきまりがわるいから、車からお出になっちゃあいけませんよ」と門のわきに車を立ててずゥーと夜がふけて人のねしずまってから三位殿が自分から車のある所に行って会って今までの事行末の事なんかを夜っぴてはなして居られた。だんだん朝になって来たので人目にかかってはと云うので車のながえをめぐらして又もとの道へかえって行かれる。どこをやどと急いで行らっしゃるのだろう又、ただいつと云って□□[#「□□」に「(二字不明)」の注記]られたのだろうか、忍びきれぬ悲の様子は車の外までもれただろう。そのあとからすぐ正時を使にして歌を送られた。
[#天から3字下げ]会ふ事も露の命ももろ共に こよひ許りや限りならまし
女房は、自分から墨をすり筆をとって返事を書かれたけれ共自分の翡翠《ひすい》のかんざしを結いてあるきわから插しきって返事にそえて送られた。その返事には、
[#天から3字下げ]逢事の限ときけばつゆの身の 君より先に消ぬべきかな
三位殿はそのかんざしを御らんになって日頃の女房の志のまことの色があらわれてその心の内の苦しさは声に出て叫ぶほど苦しく思われた。やがてその女房は院の御所をまぎれでてまだ二十三と云うのに花のたもとに引かえて墨ぞめの袖にやつれはてて東山の双林寺の近所に住んで居られた。此の女房と云うのは大原の民部入道親範の女で左衛門の督《カミ》の殿と云った御人である。
横笛
その頃いろいろ物哀な話はあったけれ共中にも小松の三位の中将維盛卿は体は八島にあっても心は都の方へ許り通って居た。そしてどうかして古郷にとどめて置いた小さい児供達も見もし顔を見せたいものだと思って居られたけれ共、丁度いいたより[#「たより」に「ついで」の注記]もないので与三兵衛重景や童の石童丸は舟の様子を知って居るからと舎人武里と三人許りつれて寿永三年三月十五日の夜のあけがた八島の館をしのびでて阿波の国の結城のうらから船にのって出てしまわれた。鳴戸の奥を渡って和歌の浦、吹上の浦や衣通姫の神様になっておあらわれになったのをまつったと云う玉津島の明神、日国前の御前の渚をこぎすぎて紀伊の湊にお着になった。ここから浦々をつたい島々を通って陸を路[#「路」に「(ママ)」の注記]って都へ行きたいとは思われたけれ共叔父の三位の中将重衡卿が一人生捕にされて京の田舎につれて行かれて生はじをさらして居らっしゃるのでさえ恥かしいのに又維盛までがつかまえられて父の名誉を汚す事もすまないからと都へ行きたいとは幾度も心が進んだけれ共考えに考えてそこから高野の御山にのぼってかねて知りあいの御僧さんを御たずねになる、この僧さんと云うのは三條の斎藤左衛門大夫茂頼の子の斎藤瀧口時頼と云ってもとは小松殿につかえて居られたけれ共十三の時本所に来た建礼門院の雑仕の横笛と云う女があった。その女を瀧口が大変に愛して通って居たと云う事が評判になったので父の茂頼が此の事を聞いて或る時瀧口をよんで云うには「私は御前一人ほか子をもって居ないから誰かよい人の縁の者にでもして出仕するついでにでもしようと思ったのにあんなくだらない横笛とか云う女になれあったとか、ほんとにお前は親不孝者の骨せう[#「せう」に「(ママ)」の注記]じゃ」なんかといろいろにいましめたので瀧口は思うに「西王母と云う者も昔はあったようだけれ共今はないし、又東方朔と有名な物も名許りきいて居て目の前に見た事はない。老少不定のさかいは石火の光と同じ様なはかないものである。たとえ人が定まった命をたもつと云っても七十や八十にはならず、その短い内に人の体の盛と云う時はたった二十余年ぎりである。その短い間に自分の心にしたがって自分の愛して居るものをしじゅう見ようとすれば親の命をそむいて不幸になる。又、親の命にしたがえば女の心はめちゃめちゃになってしまうだろう。短い世の中にいやなものを一寸でも見て何にしよう。浮世にそむいて仏のまことの道に入るのはこの上ないよい思いつきだ」と瀧口は十九でもとどりかりて嵯峨の奥の往生院に住んで念仏許りして暮して居た。横笛は此の事をきいて「たとえ様をかえたとおっしゃってもなんぼなんでも、私をすてはなさらないだろう。様をおかえになった事がほんとうにお可哀そうだ。たとえ様をおかえになるにしてもなぜ自分にそうと知らせて下さらなかったのだろう。たとえ彼の方がどんなに心づよくおっしゃってもどうしてどうかしてもう一度御たずねしたいてお恨したい」とある暮方に内裏を忍び出て嵯峨の方へあこがれて行らっしゃる。
頃はきさらぎの十日すぎの事なので梅津の国の風はよそのここまで床しい匂をはなしてなつかしく大井川の月影はかすみにこめられて朧にかすんで居る。この一方ならない哀な様子を誰故と思ったろう。往生院とはきいて居たけれ共たしかにどこの坊に居らっしゃるとも知らないのでここかしこの門にたたずんでたずねるのも哀である。ここに住みあらした僧坊に念誦の声がしたのを横笛は瀧口の声ときき知ったのでつれて来た女房を内に入れて云わせたのは「御様子の御変りになったのを拝見したいと横笛がここまで参りました」と云い入れたので瀧口は胸がおどって浅ましさに障子のすきまから見たらばねこたれがみのみだれて顔にかかった間から涙の雨露が所せまく流れて今夜一晩ねなかったと見えて面やせた景色、自分からすぐに入ってたずねたいのにそれもあんまりなとたずねかねた有様はほんとうに見る許でも可哀そうでどんな道心者でも心よわくなるだろう。瀧口やがて心を取りなおして人を出して「私はそんなものではございません。きっと間違えでもございましょう」ととうとう会わないでかえしてしまった。そののち瀧口入道は主の僧に向って云うには「とても世の中に
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