すの外へおし出されたので仲国はその女房の装束を肩に打ちかけながら「外の人の御使でございましたなら御書の御返事の上は子細ございますまいけれ共君の内裏で御琴をおひきになった時常は笛の役に召されてまいりましたその御奉公をいつのまに御忘れになったのでございましょう。直々の御返事を承わらなくては口惜うございます」と申したので小督の殿も「ほんとうにそうでもあろう」とお思になったと見えて身ずから御返事をなさる。「貴女もかねて知って居らっしゃる様に太政の入道殿のあんまりおそろしい事許りおっしゃるとききましたのがあさましくて或る暮方に内裏をしのびまぎれ出て来たので、このような住居の有様なので琴なんぞひく事もなかったのにあすあたりから大原のあたり思い立って行く事のあるので、あるじの女房が今夜だけの名残をおしみながら居る内に早夜がふけましたから今は立ちぎく人もありますまいなどと様々にこしらえて云うのでしみじみ昔の事もなつかしくて手なれた琴を引いた所をぞうさもなくすぐきき出されてしまった」と云って御涙にむせび給えば仲国も思わず袖をぬらしてしまった。仲国の云うには「明日から大原の辺に思召立たせられると云う御事はきっと御様などお変えになるのでございましょう。そんな事を遊ばしてはいけません。主の女房御出し申してはいけません」と云ってつれて居ためぶ吉祥などと云う男をとめておいて我身一人内裏へかえって来た時は夜ははやほのぼのと明てしまった。料の御馬をつながせながら、女房の装束をはね馬の障子になげかけ「今はもう御夢も深ういらせられるだろうからだれにたのんで申し入れよう」などと思いながら南殿の方へ行くと十六夜の月はもう南の御庭をわたって西の中間へさし入って居るけれ共君はよるの御殿にも御入りにならないで仲国を御待ちがおに夕べの御座いらっしゃった。南にかけり北に向う、寒雲を秋のかりにつけがたし東にいで西にながる、只せんぼうを暁の月によすと、高らかに御詠じになって居らっしゃる所に仲国が大急ぎで参り、小督の殿の御返事を奉ると主上はななめならず御よろこびになって「相談するものもないからお前迎に行って」とおっしゃったので、仲国は平家のおもわくもはばかったけれ共是も勅定だからと云うので牛車を清らげにさして嵯峨に参り此の事を小督の殿に申したけれどもしきりに参らないとおっしゃったけれ共様々にすかして迎えとってかすかなる所にしのばせまいらせて主上夜な夜なお召になって居る内に姫君が一人お出来になった。此の姫君と申すのは坊門《ボーモン》の女院の御事である。
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  *桜町中納言は入道信西の子なり。此卿いたく桜を愛し神に祈りしかば桜花久しく散らざりしより桜町の名ありしなり。
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     小宰相の身投

 今度摂津の国の一の谷で討死した人々には越前の三位通盛薩摩の守忠教但馬守経政若狭守経俊淡路守清房尾張守|経《キヨ》貞備中守師盛武蔵守知章蔵人大夫成盛大夫敦盛十人と云う事である。十の首が都におくられると一所に越中守の前司盛俊の頭も同じに京に送られた。中にも本三位の中将重衡の卿は一人だけ生捕にされてしまった。二位殿は此の由を聞いて弓矢取る武士の軍場に死ぬのこそあたりまいな事であるのに可哀そうに前の三位の中将が一人生捕にされてどんなにかいろいろな事を思って歎いて居るだろうと云っておなきになった。北の方大納言の佐殿は様をかえて尼になろうとなすったのを大臣殿も二位殿も「貴女をどうして尼さんになんかして世の中をすてさせる事が出来ましょう」と様々に制しておとめになったので様を変る事も出来ず只ふし沈んで泣いて許り居らっしゃった。其の外一の谷で討死した人々の北の方はたいがいの方はみな様をかえられてしまった。中にはあわれなのは越前の三位通盛の侍にくんだ瀧口時貞と云うものが軍場かえって北の方の御前に参って申したのには「上様は今朝湊川のすそで敵七騎の中に取こめられてとうとう御討れになってしまいました。殊に手を下して御首を討ちまいらせたのは近江の国の住人、木村の源三成綱と申しました。私もすぐ御供申し上げにどんなにもなる身でございますが、かねがねの仰せには『私がどのようになったとも後世の御供をしようなどとは思っていけない。必ず心をきめて北の御方の御行方を御見とどけ申せ』とおっしゃって居らっしゃったので甲斐ない命をたすかってここまでまいりました」と申したので北の方は何とも返事をなさらないでかつぎを引きかついでお泣になる。人の話に、三位の君は御討になったとききながら「此の事のもしまちがいではないだろうかしら、又生きておかえりになる事もあるかもしれない」と只一寸旅にでも出た人をまつように此の三四日の間は頭をのばして待って居らっしゃったのもあわれな事である。けれ共今になっては只むだに日数もすぎて「もしやもしや」と思って居たたのみの綱もつきたのでよりどころない心細さを感じられた。二月の十三日一の谷から八島へむかって海を渡られる暁つき近くに北の方、乳人の女房に向っておっしゃるには「ほんとうに思えばはかない哀なものだ、三位の君のあした、打ち出ようとする夜に軍場に私をよび招えておっしゃるには『弓矢取るものの軍場に出るのは常の事だけれ共今度はきっと死ぬだろうと思うと世にくらべるもののないほど心細い。さて考えれば此の通盛のはかない情に都の内をさそわれ出て歩みなれぬ旅の空に出てからもう二年にもなるのに一度もいやなかおをなさらなかったのはほんとうに此の通盛がいつの世までも忘れない嬉しい事だと云って、そして此のように体のつねでないのもよろこんで通盛が三十になるまでは子と云うものがなかったのにさては浮世のわすれかたみにと云うのであろう。そしてこのようにいつまででもきりのない波の上、船の中の住居だから身々となる時のきまりわるさ、心苦しさをどうしたらよいだろう』なんかと云って居られた言葉も今ははかないかねごととなってしまった。まだこの世に居らっしゃった六日の前のあかつきをもう此の世のかぎりと知れたならばきっと後の世を契ったものをあいそめたその夜の契さえ今は中々うらめしくて彼の物語にある、光源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ、弘徽殿のほそどのも私の身の上にひきくらべて一しお哀深う思う。まどろめば夢に見ん、さむれば面影に立つと云うたのもほんとうの事に思われる。それだが又、身々となってから幼児を育てて置いて亡き人のかたみと思って見たならば悲しみはまさるともなぐさめられる事はきっとあるまい。なまじ生きて居たらば思わぬうきめもあろう。志草のかげで見るも心うい事であろう。此のようなついでに火の中水の底へでも入ってしまいたいと思って居る、書いて置いた手紙を都の方へお送りなって下さい。ついでに後世の事を云って置きましょう。装束をどんな聖にでも賜って我の御世をともらって下さいね。何よりもこのなごりがいつのよまでも忘れないほど悲しい」と云っていろいろ行末、こし方の事をかきくどいておっしゃると乳母の女房は「マアどうしたのでございましょう。日頃は人が来て物を申しあげるのにさえはっきり御返事もなさらないような御方が今夜許り此の様にいろいろおかきくどいておっしゃるのはほんとうに火の中水の底にでもお入りになるのであろう」とかなしく思って「今度一の谷で討死をなされた御方の北の方の御歎はどなたも同じでございます。けれ共皆様は御様を化えさせられてしまいました。六道四生の道は別々でございますもの、貴女様もどの道へか行らっしゃって上様と同じ道を行らっしゃるのはむずかしゅうございましょう。それに又、身重の人の死んだのは殊に罪深いときいて居ります。身々とも御なりになったのち幼き御子様を御育になって亡い人の形見と御らんなってまだそれでも御心がいがなかったら此のみの様をかえ亡い人の御菩提を御ともらいなさいませ。たとえ千尋の海の底におしずみになるのでも私をつれておいで下さいまし――」と様々に悲しみなげいたので北の方はそのように云われて悪かったと思われたと見えて「ほんとうはそんな気はないけれ共あんまり思がつもったのでつい、云ったので何にもそんなに驚いたり泣いたりする事はありませんよサア、夜もふけた様だからねましょう」とおっしゃると乳母の女房はうれしがって北の方のわきにねてしばらくまどろんだと思う頃北の方は起きなおって舷へ出られた。漫々とはてしない水の上だからどこを西とはわからないけれ共月の入りかけて居る山の端をその方がくだろうと思って静かに念仏をなさると沖の白砂に友にまようたと見えて千鳥がしきりになく。海の面をすべってきこえて来る、かじ取りの音やエイヤエイヤとするかけ声のかすかにきこえて来るのも一しお哀をそえて居る。「南無西方、極楽世界の教主みだ如来、あきもあかれもせぬ内に別れてしまったいもせの習い、私もまた歩みますどうぞ来世では一つはち[#「はち」に「(ママ)」の注記]の上に」とかきくどきながら「南無」の一声と一所に波の底に入ってしまわれた。哀な事である。二月の十三日一の谷から八島へ渡るあかつき近い時のことであったので誰もこの出来事を知らなかったけれ共並びの舟に一人のかじ取りが舟をこいで居たのが之を見つけて「アアお可哀そうに、なんと浅間しい事だろう。あの御舟に乗って居らっしゃった女房の只った今海にお入りになってしまったのはマア」と大きな声で云ったのを乳母の女房がききつけて、そばをさぐって見るといらっしゃらない。「アレアレ大変大変」と叫び出したので人々がみな起きて来て舟をとめて水夫を海に入れてさがさせたけれども見つからない。それでなくっても春の夜はかすむ習いなので四方の村立つ雲がフワフワと浮かれて来て月の光をかくす夜半なのでまた、阿波の鳴戸のしらせで満汐引く汐が早いのでまして御着物も波と同じに白いのでさがしてもさがしても見つからなかったけれ共、しばらく立ってからようやくかつぎあげて見ると練色の二つぎぬに白い袴をきていらっしゃる。髪も袴もしお水にぬれてベトベトになってせっかく取りあげたけれ共もう甲斐がない。乳人の女房はもうつめたくなった御手にすがりついて「マア、何と云う浅間しい事を遊ばしたのでしょう。私はまだ貴女様が御乳の中に居らっしゃる時分からお育て申してこのかた今日まで片時もはなれず、都に出でになる時でさえ年を取った親をふりすててまでここへ御供申したのになぜこの様なうきめを御みせになるのでございましょう。たとえ因ねんでございましょうとももう一度丈生のある御声を、昔の御姿を今一度お見せ下さいませ。マア、ほんとうになんて云う」と云っていろいろに歎いたけれ共甲斐がなく、少しかよって居た息もたえてとうとう死んでしまわれた。こうして居てもしようがないから、故三位の君のきせながが一領のこって居たのでそれにおしまとめて又海へかえしてしまった。乳人は「私も」と一所に飛び込もうとしたのを人々にとめられて船底にたおれて歎いて居たけれども自分から髪をきって三位の弟の中納言の律師忠快に頭をそっていただいて泣きながら戒をたもって居た。男に別れた女の様をかえるのはありふれたあたり前の事だけれ共身を投げるまでした事は例の少い事である。忠臣は二君に仕ず、貞女両夫にまみえずと云ったのもこのような事を云ったのであろう。此の北の方と云うのは故藤の刑部卿教賢の御女で上西門院に宮仕えして小宰相殿と申して居た。それをまだこの頃中宮の亮《スケ》であった越前の三位通盛が此の女房を一目見て歌をよみ、文をつくして長い年月恋をなして居られたけれ共なびく様子もなかったので三位が三年目と云う時に今度をかぎりにと文を書いて年頃取りつたえて居た女房に賜って「どうぞ此を彼の君に」とたのまれたので御所へもって行くと丁度その時小宰相殿が里から参内なさる道で行きあったので御車のそばを走りすぎる様な様子をして其の文を車の内へなげ入れて行ってしまった。小宰相殿は「今此の手紙を車の内になげ込んだのはどんな人でしたか」と御たずねになったけれ共、お供をして居たものがみんな知りませんと云ったので車の内において置くのもはず
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