行らっしゃる。
頃はきさらぎの十日すぎの事なので梅津の国の風はよそのここまで床しい匂をはなしてなつかしく大井川の月影はかすみにこめられて朧にかすんで居る。この一方ならない哀な様子を誰故と思ったろう。往生院とはきいて居たけれ共たしかにどこの坊に居らっしゃるとも知らないのでここかしこの門にたたずんでたずねるのも哀である。ここに住みあらした僧坊に念誦の声がしたのを横笛は瀧口の声ときき知ったのでつれて来た女房を内に入れて云わせたのは「御様子の御変りになったのを拝見したいと横笛がここまで参りました」と云い入れたので瀧口は胸がおどって浅ましさに障子のすきまから見たらばねこたれがみのみだれて顔にかかった間から涙の雨露が所せまく流れて今夜一晩ねなかったと見えて面やせた景色、自分からすぐに入ってたずねたいのにそれもあんまりなとたずねかねた有様はほんとうに見る許でも可哀そうでどんな道心者でも心よわくなるだろう。瀧口やがて心を取りなおして人を出して「私はそんなものではございません。きっと間違えでもございましょう」ととうとう会わないでかえしてしまった。そののち瀧口入道は主の僧に向って云うには「とても世の中に
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