うことについても。
私は今に、何だか命がけで誰かを恋しはしまいかと云うことを大変に予感して居る。その心持は恐れと、歓喜との混ったもので、苦しい。今まで、多くあった自分の恋。皆失望して、自分からすてて、進もうとする足の下に踏みにじってしまった恋の多くは、何だか、これから来るほんとうの大きな、自分の命とかけがえになるほどの大きな愛の先駆ではあるまいかと思われる。自分はMに pity を感じ、Kには、かなり尊敬の混った愛情を感じて居る。Kに対して、自分の心は、殆ど恋と云ってもいい位のものになって居る。けれども、それを発表することは、絶対に自分自身に禁じる。何故ならば、やがてもう一二年も立つと、今までの多くと同様ふまれるべきものとなってしまうことが、自分に分って居るからである。
自分の足の下にふまえるには残[#「残」に「ママ」の注記]しい尊さが彼の中にはある。
其故自分は、彼に対して友達であろうと努めるのである。
それがいいのだ。彼と面を合わせて居るとき、自分はどの位、落付いて居られるかと云うことを考えると、自分だけの裡に感じて居る苦痛などは、要するに自分自身の生長の力と異わない。ジイッとして、ジリジリと行くのだ。そこに道がある。光明がある。私自身のほんとうの生が輝く。
○真に自分と合一|致《な》し得た者を得たと云う点に於て、自分は、罪と罰の、ロージャを羨む。
○自分は多くのものを愛して居る。が恋は出来ない。私の道徳的な考えを滅茶滅茶にする丈、強い力はどこにも見つかりそうにもない。それは、自分の恋せない心持の理由を知って居ることは賢いことである。たしかに賢い。が、うれしくはない。否寧ろ、哀れむべきとも云える。人生! 人生?
○イベットを読み、死の如く強しを読む。二者の間のまるで違った感じは、単に訳者の相違からのみ起って来て居るのでないことは、よく分って居る。けれども、その訳の仕振りは、いかにも、訳者二人の箇人性をあらわして居る。
○ジイッと座って居る。うす黒くなった障子を通し、ガラス戸、塀を通して、かすかながら動いて居る外の世界の響が聞えて来る。乾いた道を行く風の音、梢の音。雀のチクチクなく声が、寒い戸外に幾分あたたかい感じを与えて居る。周囲は非常に静かである。が、心は落付かない。何もしないで斯うやって、お客になって居なければならないことは辛い。
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