○三月二十四日。
 生ける屍と闇の力を読む。
 又訳に関して感じたのだけれども、闇の力の方は、あれをあのまま芝居にしていい丈訳が洗練されて居るが、生ける屍の方は殆どひどい位だ。何だか、少し無責任だと云う心持もする。若しあの訳言をあのまま頭に入れて仕舞って、生ける屍とは斯う云うものだと云う者が一人でもあったら、それは佐藤氏の罪だ。
 ○闇の力の、代用の場面のついて居るところは、矢張り、代りにとしてついて居る方が、舞台にかけたらよかろうと思う。ニキタが、赤子を押しころすところを、第一のようにされては、殆ど見て居るに堪えない。ニキタの苦しみ、どうにもならなかった彼の苦しみを、体験するのには、あれを見なければなるまい。けれども、第二のナンを用ってあらわしてある方が、もう少し私には安心な心持がし、又日本の目下の警察ではあれを許しはすまい。
 ト翁が、代りに用っていいとして第二の方を書いて置いて下すったことを感謝する。

 ○雨がひどく降って居る故か、右の手の先の方にリョーマチがついた。手が利かなくなったら困るがなどと思う。小野川の温泉へでも行って見ようか。少しひどく痛いのでいやだ。

 ○人間がひまだと、ろくなことをしないと云うのはほんとうだ。
 孔子が、小人閑居して不善を為す と云ったのは、流石《さすが》に孔子様だ。今私は、自分で困るほどひまだ。否、強いてひまにさせられて居る。何かしなければならないと、心に思って居ても、現在することがないと、下らないことを思う。彼の(郡山へ来るときのって居た水兵の)言葉ではないが、雑念が起って来る。
 その雑念の起って来ることは、小人の所以であろうが、又自分には、尊いところであろうとも思う。

 ○外は真暗である。何の物の形も見えない。只折々とんで来る火の粉が、うるしをといたような闇の中に非常に美くしくやさしく輝く。何かの光、色にうえて居る心は、その群をなしてとんで来る光が目に入ると、瞬間心がかるくうれしくなって来る。けれども、それが消えると、又元のような旅愁が彼女の心に入って来る。

 ○汽車が動いて居るのだと云うことを証挙だてる、どんなささいなものもくらいそとには見えない。其故ときによって、心持の持ちようによると、列車はまるで前へは進まずに、一つところで上下にガタガタゆれたり、吼[#「吼」に「ママ」の注記]ったりしてあばれて居るように
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