、文芸評論に類似する発言が迎えられた現象もおこした。また、同じフランス文学によっているきょうの同時代の人々の間でも、時代性ぬきのフランス派――それは、ヒューマニズムの世界史に立つ展開とその具体的な内容について、さしたる重要性を見ようとしない立場の人々と、第二次大戦を通じてフランス人民の生活と文学とが変化した事実をはっきり把握している人々の間には、いちじるしい精神と気風との隔絶がある。後者は、こんにち日本の銀座にジュリアン・ソレルという服飾店などがあることを、アルジェリア女の口からきくパリまがいのフランス語とひとしく、その人々のためにまたフランスの良心のために汗ばむ思いで見ているわけである。
 民主主義文学の批評の能力が弱いということから、一九四八、九年に批評の無力が云われはじめた。民主主義文学運動は、批評の能力において欠けていたばかりでなく、新しい文学行動の創造力を日本の国土にめざましてゆく力においても欠けていた。
 従来の市民《ブルジョア》文学との関係で、このことが観察された場合、そこには、互いに影響しあっている何か微妙ないきさつはないだろうか。
 民主主義文学運動の側から考えると、
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