ならわしをもっているという事実で、むしろ、こんにちの世界文学をおどろかせ、奇異の思いを抱かせることではないだろうか。
 そして、活溌な批評家と見られている人たちが、作者がだまって机の下に入れている「下じき」を見抜いて、それはラディゲであるとか、或はフローベルであろうかとか、当てものが一つの文学の仕事であるならば、それは文学的クイーズであるにすぎないだろう。
 日本のきょうの文学、しかも西欧的なものを意欲していると云われる人々の文学にあるこの奇怪な顛倒と時代錯誤への屈従、追随こそ、批評家を無力にし、骨抜きにしている。別の云いかたをすると、戦後の批評家の多くは、その人自身、国内亡命をしていた人々であり、作家と同時代人としての、同じ精神の習癖をもっている。いわば、日本のはだしの足の、指ではがれている生爪を見ることを顰蹙《ひんしゅく》するかたぎ[#「かたぎ」に傍点]をもっている。このことは、それらの人々の文学の言葉では、リアリズムへのぬきがたい疑いとして語られつつある。
 これらの複雑な精神の状態から、批評の無力は、ひきおこされた。したがって、先ごろ、文学の外にいると考えられている人々の間から
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