てゆかなければならないと考えるからである。
 つい先日の新聞にのった文芸時評で、青野季吉が、文壇文学からの「脱出」が試みられている一つながりの作品として数篇の小説にふれていた。
 現代文学の行きづまりが感じられてから、脱出は「雲の会」となり「ロマネスク」の愛好となって賑やかに示威されている。
 正宗白鳥の「日本脱出」は、一部の批評家によると、日本のニヒリストが、現代ロマネスクのチャンピヨンとしてあらわれた驚異の一つであったようだ。
「脱出」という言葉を日本の文学の上に、ふたたびよむとき、わたしたちの心には、ある思いが湧く。一九三六年ごろ、イタリー映画に「脱出」という作品があった。ムッソリーニが、ヒトラーとの黙契によって北アフリカへ侵略を開始する前ごろの作品で、いまこまかなストーリイは思い出せないけれども、当時イタリーの人民生活を圧していた社会不安、生活の不安から、北アフリカへの軍事行動へ「脱出」するという、好戦の映画であった。イタリー大使館かどこかの好意による特別試写会で、それを見た。そして「脱出」という字は深く心に刻みこまれたのだった。
「日本脱出」は、考えてみれば、白鳥のなぐさみに
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