、混合して噴出している。おそらくは、「二十五時」などの中にも。そして、われわれ日本の読者の悲劇は、ヨーロッパ現代文学の中でも、歴史様相に対して最も猜疑心の深い動機にたつ作品が、このんで紹介され、高い翻訳料を支払うために熱心に広告されるということである。
 現代文学の中には、まともに、野暮にくい下って、舶来博学の鬼面に脅かされない日本の批評の精神が立ち上らなければならない時だと思う。
 日本の社会生活と思想の伝統に、ヨーロッパの近代市民の性格が欠けているということ。従って、近代のヨーロッパの知性をうけいれている文学精神は、日本の社会感覚、文学感覚との間に、忍耐をもって埋めてゆかなければならないくいちがいを生じている、というようなことについて、こんにちでは知っていないものもないし、自覚していないものもない。それを、日本の知識人の悲運という風に主情的に語るだけでは、それ自体、その人たちも排撃している日本の文学精神の主情性であり、理性の譲歩ではなかろうか。
 わたしたちは、よくよく思いおこさなければならない。かつて日本人民の運命が東條政府によって破滅に向って狩り立てられはじめたとき、文学が文学
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