とがわかって来た。杉捷夫そのほか、いくたりかの人は、かりにも日本の主だった文学者があつまったファシズムに抵抗するために協力を語ろうとする席に、そのときのような空気は予期しなかったと失望を洩したのだった。
この経験は、民主的な立場をもつ文学者でも、その思想を行動しようとするとき、便宜主義に支配されたということを教えていると思う。提供すべき責任のあるのは真の話題であった。人々を、在り来った自身のうちから出で立たせる情熱のモメントこそ、提出すべき唯一のものであったと思う。
それならば、安直な便宜主義のために善い意図さえ流産させる行動感覚は、民主主義文学者の間にだけ残されている古さなのだろうか。もし、そうであるならば、高桑純夫が十五年前に立ちもどったきょうの日本において「怒りうる日本人」(展望十二月号)の価値を語っている文章が、読者の心に訴えるもののあるのは何故だろう。
同じ歴史のうちに生きながら、共産主義者の負う運命は、さながら自身の良心の平安と切りはなし得るものであるかのように装う、最も陳腐な自己欺瞞と便宜主義が、日本の現代文学の精神の中にある。この天皇制の尾※[#「骨+(低−にんべ
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