、きめなければいけない。」
 ドミトリーには既に妻子があるのであった。彼は、まだそっちとの交渉を決定しきれないで、インガとの関係に入ってしまっている。このことについて云い出したのは、インガとしてはじめてではないのである。婦人部オルグのメーラなどは、まるで公式的に戦時共産時代からの性関係の形を自身うけついで暮している。
 インガが、ドミトリーとのことを話し、彼の妻子について彼女が気を重くしていることを云ったら、長椅子の上へ寝ころびながら、メーラは口笛を吹きながら云った。
「何でもありぁあしないじゃないの。三人で暮す。それっきりのことさ。」
「――でも、あなた自分の歯楊子をひとに貸す?」
 メーラはインガの質問をはぐらかした。
「ああ、私丁度歯楊子をなくしたところだった。どうもありがとう。思い出さしてくれて!」
 インガは考えるのであった。自分は工場管理者という自分の職務の上で、何か手をぬいたり、雑作ないように問題を誤魔化したりしたことがあったろうか? 一度もない。彼女はこの裁縫工場へ管理者として派遣されてから、新しい三つの職場を殖し、作業を機械化し、三百人の労働者を増す程、生産を拡大した。何故、自分は新しいソヴェト型を、自分達の工場で使おうとするか? 生産の量だけを増し、安くするだけが新しい文化の向上ではない。インガは――ソヴェトの民衆は、大量生産のやすいものが買えることだけで満足してはならないと思った。その物には新しい美が、プロレタリアート文化の輝きが加えられていなければならない。インガは生産に対して、そういう進歩的な意見をもって服型一つのためにも努力している。
 恋愛に対する態度においても、インガは同じであった。インガは、三十五歳になりながら十七歳のコムソモールカを模倣して安心しているメーラではない。恋愛は自由であるが、自由ということの内容は二人の女が一人の男と暮すことでつくされるものだろうか?
 インガは日常生活の一部としての性関係においても、生産に対すると同じに積極的な、意味ある建設性を求めている。インガには、外にそうしているひとがあるというだけでズルズルべったりに妻子のある男と交渉をもちつづけて平気ではいられない。
 しかし、ドミトリーは、そのことをどう考えているか? 一言に云えば彼は困っている。ドミトリーが、インガを知ってはじめて、人間の女というものにめぐり合ったというのは、真実である。けれども妻と一歳の娘――インガに、妻のグラフィーラと自分とのどっちを選ぶつもりなのかと云われると、ドミトリーはこう答えるしかなかった。「どうしていいか分らない! 森へ迷いこんだようだ。」
 インガは、その点をただ恋人とし、女としての立場からだけ云っているのではなかった。彼女は、同志として、ドミトリーの決断を知りたいのである。赤坊のために、自身の発育を低める党員があるだろうか? 娘にとって闘士であり、革命家である父であるためには、結局日常生活の実践そのもので、彼がひるまぬ闘士であり、革命家でなければならない筈ではないか?
 ドミトリーは、困った揚句、一策を思いついた。
「やっと考えた! やれやれ! インガ、二人で一週間かそこら、郊外へ行こう! どうだ? 或はモスクワへ。」
「それから?」
「フー。どうでもいいじゃないか? どうにかなるだろう。何とか落着がつくだろう。」
「何とか? どうにか? いいえ! そういう決心は私の役に立ちません。」
 インガとしては、自分達の関係がただことのゆきがかり、或は成行で決定されることを認めることは出来ない。社会主義社会の建設は、果して成りゆきによってその方針を決定され、進展されているような受動的なものであるであろうか? それは全然反対だ。
 ドミトリーは遂に決心した。
「よし!」
 インガは息をころしたが、ドミトリーは呻いて一つところを低徊した。
「奴等をすてることは俺にゃ出来ない!」

          三

 ドミトリーは悪い時に家に帰って来た。
 沢山の洗濯物が部屋の天井からぶら下り、赤坊の揺り籠が隅においてある。そういうドミトリーの室では、遊びに来て喋り込んでいた女房を追いかけて、例のボルティーコフがあばれ込んで来ているところであった。
「畜生! 上向けば女! 見下しゃ女! あっち向きゃ女! ここでまで女だ! えい、畜生! サモワールを俺さまが立てるてえのか? 俺あ貴様の何だ? 犬か? 亭主か?」
 そして、たった四十だのにもう干物みたいになって終っているナースチャを、ボルティーコフは擲る。引ずりまわす。
 一日中寝巻姿でゾロリとしている技師ニェムツェウィッチの女房が、騒動をききつけてドアから鼻をつっこみ、それを鎮めるどころか、折から書類入鞄を抱えてとび込んで来たドミトリーを見るや否や、キーキ
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