ー声で喰ってかかった。
「タワーリシチ・グレチャニコフ! 住宅管理代表として、こんな醜態は以後注意して下さらなくちゃ困りますわね。宅にはお客様があるんですよ。宅はへとへとになって帰って来たのに、ここじゃドッタン、バッタン! 休めやしない! こんなことだと分ってりゃ引越してなんぞ来なかったんです。」
 流行もなにもないぼってりした恰好で、後れ毛を頬にたらした無学なおとなしいグラフィーラは、自分達の家庭へ他人があばれ込むのも制御出来ない。而も、彼女は今辛い心持をやっと押えているのであった。さっきアイロンをかけるためにドミトリーの上着をふるったら、一枚紙きれが落ちた。何心なくひろって見たら、どうだろう、それはインガからドミトリーへあてた呼び出しであった。
 ああ、この頃のドミトリーの変りようはどうだろう。元は、何でも話し一緒に笑いした彼が、まるであかの他人みたいな目つきで自分を見る。黙っている。その原因が、ここにあった。グラフィーラは泣きながら、ナースチャに訴えていたところであった。
「私はミーチャなしじゃ生きていかれないよ。……誰にやるもんか。ねえ、何のためにこの子までを不仕合わせにするんだろうねえ。あの女が私よりも綺麗なら綺麗でいい、いい女ならいい女でいいよ。だからって、どうしてワーリカが不仕合わせにならなけりゃならないんだ。私の怨みは忘れても、そればっかりは勘弁出来ない!」
 ドミトリーに見つからないようにかくしておいた聖母像までもち出して、グラフィーラは拝もうとした。が結局こんな絵が何のたしになる!
「ひょっとしたら、これでミーチャは私に愛想をつかしたんじゃないだろうか? おがんでいるのを見たんじゃないだろうか。ああナースチャ! 私、どうしていいかわからないよ!」
 そこへ、酔ったボルティーコフがよろけこんで騒動をおっぱじめたのであった。
 グラフィーラは、涙を前かけでふいた。ボルティーコフ夫婦とお喋り女を追っぱらってやっと椅子へ坐り込んだドミトリーに、彼女はおずおず訊いた。
「ミーテンカ……夕御飯の仕度しようか?」
「――いらない。」
「お茶?……じゃあ。」
「何も欲しくない。……はっきり云ったじゃないか!……どこもかしこもガラクタだらけだ。きたない……掃くひまもなかったのか? フ!」
 ドミトリーはこの頃見えはじめた自分の家庭の内の文化の低さに我慢出来ないように溜息した。彼は、ハンケチを出して額をなでまわした。ハンケチには香水がついている。グラフィーラは後毛《おくれげ》をたらしたまま、歪んだ笑顔で、
「香水をつけ出したんだね。」
と云った。
「とてもいい香水だ……何を拭いてるのさ?」
 食いつくようにドミトリーを見つめていたグラフィーラの眼が、忽ち涙と怒りでギラギラ光り出した。彼女は、いきなりぶつかった。
「ミチカ! 馬鹿! お前すっかり自分の身をほろぼすんだよ……私たちみんなを滅ぼすんだ!」
 ドミトリーは、びっくりして女房を見上げ見下した。
「どうしたんだ? 狂犬か? 今日は……」
 グラフィーラはたまらなくなって、ドミトリーの足許へ体を投げ出した。
「ミチューシャ! お前さんは私の大切な蝋燭だよ! ね私の悲しいときの悦びだよ、お前さんは!」
「やめろよ、おい! 休ましてくれ。一日中気違いみたいに働いて、またここで……」
 ドミトリーは、いきなりとってつけもなく云った。
「お前、体を洗わなかったんか? 変に匂うぜ……」
 一言が、思い掛けない結果になった。グラフィーラは、刺されたように床から跳び上った。
「いやかい? いやんなって来たのかい私が。知ってるよ、いやなのは! そう云いな。何故だましてるんだ? どうして私を嬲《なぶり》もんにしてるんだよ!」
 彼女は、震える手でインガからの手紙をドミトリーにつきつけた。
「恥しらず! 卑劣漢! こんなこたなかったって云うつもりか。え?」
 黙りこくってその手紙を眺めたのち、ドミトリーはのろのろポケットへしまい込んだ。
 やがて、同じようにのろくさ云った。
「――じゃ、片をつけよう、こうなったからにゃ。」
「片をつける?」
 インガと話していた時には、とても言えないと思っていた言葉が遂に出た。ドミトリーは勇気を失うまいとしながら、グラフィーラの、家事で荒れて大きい手をとった。
「グラーシャ! わかってくれ。俺あ育ったんだ。元の俺じゃなくなったんだ。」
 月給を貰うと、まあ自分には時計の鎖でも買ったり、グラフィーラに新しいショールでも買ってやる。月に一遍夫婦揃ってお客に行く。祭の日にはせいぜいキノか芝居へでも出かける。昔のドミトリーの生活のそれが最大限度であった。家庭がドミトリーの慰安所であった。
 ところが、革命が起った。ドミトリーの生涯は新しく、闘争と餓えとの間から萌え出し
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