た。プロレタリアート全戦列の前進とともに。
 グラフィーラの生活は、ドミトリーのその急速な社会生活の拡大について、一緒にひろがってくることは出来なかった。彼女の地平線は、昔ながらに労働者住宅の壁までで止っている。台所と洗濯桶と亭主とワーリカが命である。
「――俺の全生活が今開いたんだ。そいつを俺あすっかり捕えたい。何にも逃さないように。――……ああ。わかるか? お前に、……同じこった、いろんな言葉で云って見たところで。」
 だが、夫婦として暮した十一年間! 生れたばかりのワーリカ。――グラフィーラには承知出来ない。
「いろんな言葉? あの時、お前さんが負傷してチブスんなってつれて来られた時、じゃ私たちはどんな言葉で話したろう? 夜、お前さんのわきに坐って看病してやったとき。二人が補助金だけで暮して、お前さんはあけても暮れても本にばっかりかじりついている。私はミシンで働いて、お前さんに暖いもの喰べさせていた時分、私たちは、じゃ、どんな言葉で喋ったっていうんだろう? ミーチカ!」
 グラフィーラは知っている。ソヴェトには沢山亭主にすてられた女がいるのを。亭主が、やっぱり「育ってしまって」女房をすてるのを。だが、この自分が、同じその目に会うといつ思っていただろう。ドミトリーは苦しげに唸った。
「どうしてそんなことを云い出すんだ? 今のこと云ってるんだよ、俺は。」
「私はこれまでの永い永い年月のことを云ってんですよ、お前さんにやった。――お前さんは自分のことだけ覚えてる。――私はどんなに生きて来た? お前さんが兵隊に行っているうち、私はのんべんだらりとしていたかい?」
 ドミトリーには、涙づかりになって「昔」で自分を押し包もうとしている無智な女房が、重荷に感じられて来るばかりである。
「――籠をかしてくれ!」
 遂にドミトリーが云った。
「どの?」
「その。」
「ありや坊やのものが入ってる、やれないよ。」
 ドミトリーは、室の天井からぶら下っている洗濯物の中から自分のシャツや靴下をひっぱりおろして、新聞紙へ包んだ。書類鞄へガサガサと机の上のものをさらいこんだ。
 戸が開いた。そしてしまった。
 暫くして、ナースチャがそっとグラフィーラの部屋を覗きに来た。彼女は、仰天してころがるように室からかけ出した。
 コレクチーブ秘書のソモフが、人のいい胡麻塩髯をふるわしてとび込んで来た。
 グラフィーラは醋酸を飲んだのである。

          四

 三ヵ月ほど経った或る日のことである。
 裁縫工場の午休みの時間。今日はこの休み時間に婦人労働者たちが、一つの同志裁判をやろうとしている。ボルティーコフが仕様がない。飲んだくれる。依然として女房のナースチャを木っぱよりもひどくとり扱う。労働者住宅や職場で騒ぎが持ち上る。その真中をのぞくと、いつもその中心にボルティーコフの強情な骨だらけの肩がゆらゆら揺れていないことはないのだ――。第一、婦人労働者がこんなに働いているところで、彼みたいな男を放任して置くことは、もう女たちに辛棒出来なくなって来た。
 工場クラブの広間には床几が並んでいる。赤い布のかかったテーブルがある。
 ぞくぞく陽気な婦人労働者が入って来た。てんでに床几へかける。メーラがジャケットのポケットへ両手を突こんで、やって来て、赤い布のかかったテーブルの前へ坐った。
 最後に一かたまり、賑やかに何か喋りながら入って来た連中を見ると、おや、そこで中心をなしているのは、ほかならぬグラフィーラではないか。
 これが、あの無智なグラフィーラ、自殺しそこなったグラフィーラであろうか。
 今の彼女は十も若がえったようだ。みんなと同じ仕事着を着て頭をきっちり赤い布でしばって、穿いている黒靴こそ、醋酸をのんで倒れたとき、穿いていたままだが、顔つきと云い歩きっぷりと云い、これは別人だ。
 しかも、何だか他の若い労働婦人たちより一層確りしたようなところがある。
「さ、グラーシャ、代表員《デレガートカ》は真前へ坐るもんだよ!」
 はにかんで奥へひっこむグラフィーラの手をひっぱって、仲間が、床几の最前列へ彼女を坐らせようとしている。グラーシャは、今は、快活な一人の婦人労働者であるばかりではない、代表員である。
 だが、あの引こんで赤坊と台所だけに命をささげていたグラフィーラ。ドミトリーがすてた、おくれた女房[#「おくれた女房」に傍点]の彼女は、どうしてこんな変りかたをしたのだろう。
 そのことについてグラフィーラは、胡麻塩頭のソモフを忘れることは出来ない。あの晩、熱にうかされ、半分うわごと[#「うわごと」に傍点]のようにドミトリーの名を呼んでいる彼女のわきに坐って、やさしく鼓舞してくれたのは、組織の古い働きてのソモフだった。
「――ミーチャ……ミーチャ。どうして
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