そうミーチャがいるのかね。お前、人間じゃないのかい。ミーチャのおかげで人生が終りになったとでもいうのかい? 赤坊にはお前がいらないだろうか? ほかの人にもお前はいらないものだろうかね、……こういう目にあった人間が、この世の中でお前のほかにないとでも思っているのかね。俺は、もう幾人かちゃんと足で立たせてやったよ。働くのさ。すっかりいいようにして上げるよ。」
 ソモフは、子供を托児所にあずければいいとその時も云った。
 胃袋へ流し込んだ醋酸の火傷がなおるにつれ、グラフィーラの生活には希望と明るみがさして来た。これまで知らなかった、暢々《のびのび》したひろさでさして来た。ソモフは、万事を約束通りにしてくれ、彼女は工場へ働き出した。
 まるで新しい生活がグラフィーラを捉え、まるで新しい力が彼女の内から湧いて来たのだ。
 ところで一方、この三ヵ月は、工場管理者インガとドミトリーのところではどんなに過ぎただろうか?
 或る日例の口調でメーラが、
「ね、家庭戦線はどうなの? 曇りなき天国?」
ときいた。インガは答えた。
「私は幸福よ。望んでいたものをみんな持っているらしい。」
 メーラは機敏な黒い目で、インガが何だか口ごもったのを見のがさなかった。
「――けれど?」
「――けれど……ほんとね、私は沢山の『けれども』を発見した。それは本当だ。まるで予想しなかったことにもぶつかった。」
 メーラに話す気も時間もなかった。インガは自分の任務を果すことに忙しい。
 ルイジョフは、いつかこの精力的で誠実な工場管理者を大衆の前で恥しめようとして失敗して以来、目に見えた反抗はしない。が、インガがソヴェト型の婦人服見本を用意することを命じた、その仕事をひっぱって、金ばかりかける。インガはそれを鞭撻し、見本を仕上げさせなければならぬ。
 技師のニェムツェウィッチも相変らずだ。
「僕はいつも貴女を女主人公《ヒロイン》だと思ってるんです。」
「小説の?」
「いや、オペラのです。」
 こういう無駄口はきくが、インガが第三交代の婦人労働者達に約束した托児所増設のための図面は、場所がないと云って、提出しない。
「私、今日出して下さるように願っておきましたよ。」
「御存じでしょうが……」
「どうして? こしらえなかったんですか? 私は貴方におたのみしておきました。」
「然し、御免下さい。托児所のためには全く場所がないんです。機械はどこへおきましょう? 結局ここは工場で、母性保護施設ではないんですからな。」
 憤慨してメーラーが叫んだ。
「それが労働婦人が主人のソヴェトの工場ですか!」
 インガがきっぱり云った。
「私が機械のための場所は見つけます!」
「すると……」
 ニェムツェウィッチは執念深く云った。
「僕がこれまでやったことは。すっかりフイというわけですか?」
「タワーリシチ、ニェムツェウィッチ! 貴方が設計図のやり直しを厭うからと云って、私は労働婦人たちに必要なものを許すことは止めません。もう托児所のことには署名がすんでいるのです。」
 この技師とトラストへ出かけようとするインガを、ドミトリーが傍の思わくもかまわず止めた。
「用がある」
「あとで。――私はトラストへ行くんです。」
「――俺に一分の時間をさけないのか? 他人とは三十分も喋ってるのに。」
「みんなは、そういう調子で私と口はききませんよ。」
「どんな調子で云ったらいいんだ? 到頭俺が、いやんなったのか? 俺あ中学校は卒業してないんだ。」
 二人きりになったとき、インガはドミトリーに云った。
「何てこと? ドミトリー! 何故みっともない真似をするんです? また、嫉妬してる。あなたは私が誰かと話してるのを平気で見ていられないの?」
 ドミトリーは、インガがいくら説明しても二言目には、「俺はああいう風な教育はないんだ」と云う。
「我慢がならないんだ。――お前が誰かほかの者と……俺あ知ってる、野蛮だとお前が云うのを。だが、俺はそれほどお前を愛してるんだ。」
「ドミトリー。考えて見なさい。私はあなたより潔癖よ。あなたのところへ自分から行ったのよ。あなたと一緒になるために――あなたとだけ一緒になるために。それだのに、あなたは私を繩でしばりつけたがっている――」
 自分との同棲者でなかった間、ドミトリーはインガの才能を理解していたらしかった。然し今は、インガも彼と同じく建設の闘士であると思うことが、彼には出来ない。
 わるいことは、ドミトリーに、自分を持ち上げようとする本気な努力がないことだ。インガは、彼よりも社会的には大きい存在である。そのインガと暮すには、彼自身伸び育たなければならない。そこに、インガがドミトリーと暮している階級的な値うちもある筈だった。――インガは彼女のよいもちものをドミトリーに、ドミトリーは
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