「インガ」
――ソヴェト文学に現れた婦人の生活――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)管理者《ディレクター》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おくれた女房[#「おくれた女房」に傍点]の彼女は、
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          一

 インガ・リーゼルは三十歳である。
 彼女は知識階級出の党員で、今は裁縫工場の管理者として働いている。大柄な器量よしで、彼女の眼や唇は彼女の精力的な熱情を反映する美しい焔のように見える。
 新社会への出発以来、ソヴェトの生産各部門には多くの婦人が進出した。いろいろな工場に、少数ながら婦人の管理者《ディレクター》も現れた。
 管理者の仕事は責任の重い部署である。ソヴェトではあらゆる生産が計画的生産であるから、管理者は、工場内の専門技師、工場委員会などを確《しっか》りと統制し、過渡的なソヴェト社会の具体的困難を突切って、社会主義的な生産を高めて行かなければならない。ソヴェトは、この工場管理者には、出来るだけ労働者出身で工場労働の経験を持つ党員を任命することにしているのである。
 ところで、或る一つの工場で管理者は労働者で、どう働くべきかと云うことは腹から知っている正直者だとしても、その下に働く専門技術家、またはトラストの支配人達は、多く知識階級出である場合が多い。昔は自分達の行く劇場にさえ入れなかったような労働者の前へ、今は顛倒した地位で自分達が立たなければならなくなった彼等が、素朴な管理者が閉口するように、報告を出来るだけ衒学的な文句で書いたり、必要もないのに、馬鹿叮寧な術語をしかもドイツ語で並べたてたりすることは屡々《しばしば》である。トラストの支配人は、策動して労働者の工場管理者を陥いれ、遂に法律を逆用して、彼を工場から追払おうとしたりする例も、事実一度ならずあった。
 こういう工場内の悪質な分子を、労働者出の管理者及び彼を支持する労働者群がどんな困難を経て、克服して行くかといういきさつは、キルションの有名な戯曲「レールは鳴る」にもよく表現されている。
 インガ・リーゼルが、知識階級から出た、教育と経験のある婦人党員であり、工場が、婦人の活動に似合しい裁縫工場である故もあって、彼女はそういう困難は経験しないですんでいるが、彼女のところには別な種類での困難があった。それはインガが女で、工場管理者の地位についているという事実である。――工場内で、女が工場管理者をしているということを、因習やその他の偏見からあきたらずに思っているような奴が少からずあるのであった。
 工場管理者代理、労働者、党員ルイジョフ、及び婦人服部職長で五十歳のソフォン・ボルティーコフなどはその代表である。
 ボルティーコフは、古風な毛むくじゃらな髯とともに、あらゆる古風な労働者の考えかたや習癖を今日まで引っぱって生きている男である。第一酒を飲む。女房を擲る。手をあげて擲るのは自分の女房だけであるが、それはつまり彼のもっている女性観の雄弁な実践と云える。インガに対してだって、心服なぞはしていない。女の工場管理者に心服なんかするのは労働者の男の恥だ、そう思っているのであった。
 夜、工場クラブで集会が終ったところだ。休憩室へみんながぞろぞろとあふれ出し、或る者は隅のテーブルで茶を飲みはじめる。それに混って、ボルティーコフも出て来た。彼はコレクティーブの秘書ソモフの踵へくっついて歩きながら頻りにぐずぐず云っている。
「よくねえよ、グリゴリイ・ダニールウィッチ! よくねえ! 女を前線に据えるなんざ……そういうなあ……ふむ、女ってものはそういうもんじゃねえんだ。」
 ソモフは、出身から云えばボルティーコフと同じ労働者である。彼は、年こそ六十にもなっているが、インガの勤労者としての価値、及び解放された女がどうでなければならないかという一般の原理に対しては、いつも公平な立場で、社会的に理解し先進的な見解を失わない男である。
「――彼女がどうだっていうんだ? 仕事のやりかたを知らないってのかね? それとも――その全然人間じゃないってでも云うか?」
 ボルティーコフは髯をひっぱりながら、
「何て云うか……勿論俺あここの主人じゃあねえ。工場はお前さんのもんで、お前さんが責任を負ってるんだ。けれど、俺あ、職長として実際の経験から云うのさ。女は――女さ。女んところにゃ、あらゆるでんぐりけえった空想があるんだ。」
 ソモフに、たしなめられると、ボルティーコフはふてくされて悪態をついた。
「工場そっくり女にかきまわされて――まともな人間の住む場所がありゃしねえ! モスクワに行くんだ俺あ。そうなりゃ、スカートはいた職長が見つかるだろうよ!」
「追っ払っちまうぞ!」
 怒鳴り出したのはソモフだ。

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