インガにない力を、互に与えあって、益々豊富な新しい社会への貢献をする望みだった。その重大な意味をドミトリーはどうも理解しない。
「俺は知ってるよ、お前がグラフィーラでないってことは。そりゃ下らないこった。が、俺は十一年間自分の洗濯もんや朝飯のことは考えずにやって来たんだ。」
 こういう不平を、ドミトリーはそれも家で云うのではない。工場管理者室で、事務机の前でインガに云うのであった。さすがにまさか、それだけを云いに来たのではないのであった。彼は換気設置の問題で来たのだ。
「俺は職場中に約束してしまったんだ。この四半期内にやっつけるって。今更、もう三月待てなんぞと云って見ろ……それこそ物笑いだ。工場管理者の御亭主……自分の女房にさえ統制が利かないって……」
 然しそれは、ドミトリーの勝手な間違いであった。工場の仕事は計画によっている。インガは、この三月内に托児所を設けることを決定し、それは着手されている。
「私はあなたの自尊心のために、そこいら中の壁をこわしてはいられない。換気設置は次の四半期にします。もう決定していることですよ。」
「俺をやっつけることをやめたくないのか? え? 自分の意志が見せたいのかい? 思うにそいつは意志じゃない。ただ女の強情っぱりだ!」
「ドミトリー!」
 インガは思わず拳固でテーブルを打った。
「考えて口をききなさい!」
 ドミトリーはゆずらない。
「――俺はこれまでいつもまけて来た。ここじゃ譲らねえぞ。」
 インガは唇をかんだ。ドミトリーは、彼女との私的関係で工場の仕事までを動かそうとするのであろう。
「私は自分の仕事まであなたの犠牲には出来ない。」
「じゃつまり何か……万事終りか?」
「――問題をそういう風に持ってくるなら、私はあなたから去るしかないじゃありませんか。……私は仕事とあなたとをとり代えることは出来ないんだから……」
 両手で顔をおさえてドミトリーは椅子に坐っている。インガは、近よって行って、ドミトリーの髪を撫でた。ドミトリーには、ただ女友達が、妻がいったのだ。インガは、今はっきりそれを理解した。同志としてのインガの価値は、ドミトリーに、分らないのだ。インガは深い悲しみをおさえ、やさしく云った。
「――私もあなたと暮すのは苦しいのよ。分って下さい。」

 こういう状態になって、グラフィーラにまた会おうとはドミトリーも予期しなかった。
 彼等は前にも一度、偶然落ち合ったことがあった。その時ドミトリーは云った。お前と暮していた方が楽だったよと。グラフィーラは、ひどく驚いた。が、二人で暫く話して見てもっとびっくりしたのはドミトリーだった。彼の知っていた筈のグラフィーラはどこへ行った? おじおじした狭い暗い女の代りに、彼の前に立っているのは、経験によって育った、活々した一人の独立した婦人労働者だ。その時、グラフィーラは云った。
「時間を与えとくれ、ミーチュシカ、私たちはお前さんのインガのようじゃない、もっとよくなるよ。少しずつ、少しずつ、ものになって行くのさ。私たちの骨はあのひとよか太いんだから、もっと強くなるさ。」
 ニコニコして、グラフィーラはそう云った!

「総てを元どおりにしよう!」
 インガとの生活に失敗したことを感じているドミトリーは、とびつくように、また出会ったグラフィーラに向って云った。
「ワーリカとあんたとは俺にとってたった一つの、ほんものの血縁だ。」
 初めてあなたと呼ばれたグラフィーラは、抑えきれない亢奮で頬っぺたを赤くしたが、答えはドミトリーが期待したものとは違った。しずかに彼女は云った。
「――元みたいには、ミーチャ、もうなれないよ。……ミーチャ。私はワーリャに父さんを持たしてやりたい。そりゃお前さんに真直ぐ云うよ。……だがあれもいい子になって来た。」
 輝いた、たのしそうな微笑がグラフィーラの口元に漂った。
「――そして私も独りもんじゃ暮したくない。でもね、ミーチャ、私は馬鹿で、あんたには追いつかないけれど、でもそんな風に暮しをごちゃごちゃにこわしたくない。
 ありどおりお前さんに云うよ、ね、私は先のような私じゃないんです。元は、ほんとにあんたといることばっかり考えてた。そのためにばっかり生きて、ごたごた仕事に追い立てられていた。ところが今ではこういうようになって来た。……私と暮す――それもいい。私と暮さない……それがどう? 私には自分の道がある。すべて元通りに? いいえ、タワーリシチ、ミートシカ! 川は逆に流れない、私は元の私にはなれないんです。」

 この前、インガとドミトリーとグラフィーラの三人が落ち合ったとき、グラフィーラが、今日はと云ってインガに手をさし出した。そうしたら、インガは、ここでは握手しないことになってますからと云って断った。
 今、話してるグラフ
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