な感じとは、倦怠《けんたい》に虫ばまれ切った囚人が、やはり、ボンヤリ高い窓をみつめて、そのなれ切った倦怠と無感覚とを、鈍く感じてるのとよく似ていた。
船員たちは、こんなことが「労働」だとは思っていなかった。彼らは、自分が寝るも起きるも賃銀労働者であることは知っていた。けれども、それを絶えず意識の中にしっかり、握り詰めているわけには行かなかった。ことにその労働場が船であったために、彼らは一軒の家に住んでいるように心得がちになるのであった。彼らは、えて、自分に課せられる不当な労働、支払われない労働を、ついうっかり、「つとめ」だと思い込んでしまうことが多かった。
「一つ釜《かま》の飯を食ってるんだから」と水夫たちは思って、我慢しているのだった。そして、それは、とも[#「とも」に傍点]の連中、メーツたちをして、最上、最強の鞭《むち》にしてしまわせた。彼らはほかのどんな手段ででも、その「やせ馬」どもが、すねてがんばる時は、そのとっときの鞭を一つ食らわせれば、それで万事はいいのだった。
そのうちに、一人《ひとり》ずつ、その寝箱の中へはまりに行った。どうしても、船長を送った伝馬は、二時半か三時、でなければ、早くても帰らないんだ。このしけでは、いつまでも帰らないかもしれないのだ。大体あまり、船長も家を恋しがりすぎるのだ!
「あああ、人間がいやになったわい」と西沢は、一番奥の彼の巣からうなった。
「どうだ、種馬になったら」と、波田が混ぜっかえして、そのまま、死のような倦怠《けんたい》へと、一切は吸い込まれてしまった。船長は、その家へ帰ったが、負傷にうめいているボーイ長は箱の中に、荷造りされたように寝ていた。
一六
本船を離れた伝馬は、その航海に本船が経験した、より以上の難航であった。港口は、すぐそこのように見えた。けれども、小倉と三上との腕のさえにもかかわらず、まるで港口に近づこうとはしなかった。船長はじれ切っていた。
「あの灯のあたりがおれの家だ」と、乗って二十分ぐらいの間は、思っていた。ところが、いつまでたっても港口が近づかなかった。しかし、まっ暗やみであったが、櫓《ろ》の音も、二人《ふたり》の鼻息もすさまじい風の音を破って彼にまでも聞こえるのであった。
伝馬は、仙台《せんだい》沖の鰹舟《かつおぶね》で鍛え上げた三上がともを押して、小倉が日本海|隠岐《おき》で鍛えた腕で、わきを押した。
しかし、彼らは二人とも、本船を離れるが早いか、これはむずかしいと直感したのであった。櫓は、振り回す鞭《むち》のようにしわっても、伝馬は、港口から、流れ出る潮流に押し流されて、すこしも進まないのであった。で、彼らは、港口までは、逆流を利用しようと決心した。そこで、船首を本牧《ほんもく》の方へ向けた。伝馬は進んだ。しかし、それは激流を横ぎるような作用と共に進んだのであった。彼らは、本船を離れて三十分もたったころ、どこに本船があるかを、片方の手で額の汗をぬぐいながらさがして見た。
本船は、黒く、小さく、港口の方に見えた。
彼らは流されつつあることを知った。しかし、彼らは、彼らの持っている最大の力以上は出せなかった。その上彼らは三十分全力を尽くしたのだ。彼らは、その潮流と、その風とに到底打ち克《か》つことができないということをさとると、ぐっとその能率を引き下げた。そして、流れない程度にだけ押して、再び船首を横には向けなかった。
一切の物がその息を潜め、その目をつぶっている。その時に、その何物も見得ない暗《やみ》の中で、懸命に波浪と潮流とに対抗することは、その運命を、牢獄《ろうごく》内に朽ちしめるように決定された、無期徒刑囚のような神経になりおおせた彼らであっても、なし得ない辛抱であった。
ことにそれは、この闇《やみ》の中に、ボンヤリすわって時々、「シッカリしないか」とだけ怒鳴る船長の、利己心からのみ起こった一切だ、という感じが、いつのまにか、闇が産みつけでもしたように、二人の胸の中に食い入っていたのであった。
今は、二人の漕《こ》ぎ手は、その櫓に対しての意識の集中を断念して、船長と称する不可解な、そのあいまいな、暗黒な形相をしていて、サンパンの中にすわっている、この生物に対して、「なぜおれたちは、こんなに苦しまねばならないのだ」という考えの周囲をさまよい始めたのであった。
それは、だれもみてもいないし、聞いてもいないし、感ずることもできない、全く暗黒[#「暗黒」は底本では「黒暗」と誤記]な闇の中であった。そこには、どんな叫び声をも一のみにする嵐《あらし》と潮の叫喚があった。そこには、何物をも洗い流すところの急流があった。そこには人間を骨ごと食ってしまう鱶《ふか》がいるのであった。
「そして、あいつは、たった一人《ひとり》だ。おまけに、あいつの腕の五本ぶり、おれの腕はある、あいつを五人さげることが、おれは平気だ! だのに……」
獲物《えもの》のまわりにわざと遊びたわむれて、なかなか飛びつこうとせぬ狼《おおかみ》のように三上は、その考えのまわりをウロウロしていた。
小倉は同じような考えを別な方から嗅《か》いでいた。飢餓がある。疾病がある。不具がある。負傷がある。そしてそれらのすべてが死へ行く道になっている。彼はこの道をブルジョアによって、他の無数の労働者と一緒に追われている。それを追って来るのは少数だ。追われているのはそれらの幾千倍も幾万倍もあるのに、その多くの労働者の群れには、牙《きば》をむいて自分のあとを振り向こうとする、たった一人の仲間さえもないのだ。労働者は、塩にあったなめくじだ。それはわけなく溶けてしまうんだ。ただ一人の労働者、それが十人に一人、十万人に一人もないのだ。それで、それでこそ、人間は、大量生産的に**されうるのだ。人間は自分のためには死ねないんだ。人間は、命令を好むものだ。命令の下にはすべての人間が死にうるが、自分からは一人の人間も、よく自分を殺し得ないものだ。一人の人間が、生きていたために、何十万の死んだ例がなかっただろうか。全世界の歴史が、このありがたからぬ、あるいはありがたいところの人間性の弱点によって、血で染め上げられ、肉で書かれたのではなかろうか。奴隷《どれい》の歴史を読んで、その主人の暴虐に憤る前に、人は、その奴隷の無知と、無活気なるを慨《なげ》かないだろうか。われら、賃銀労働者も、奴隷のように、農奴のように、われらの子孫をして拳《こぶし》を握らしめないであろうか。それは、人間の力をもっては、意思の力をもってしては、いかんともなし難いところのものであるか。
おれが、人類の歴史を見て泣くように、おれはまた泣かねばならぬ歴史を、書き足しつつあるんだ。おれは、そういう汚《よご》れた歴史に邪魔者としてはいることは、今までできたのだ。また今でもできるのだ。だが、それができないところに人類の歴史が汚されるような大きな結果が持ち上がるのだ。だが、血と肉とで積み上げられた歴史は、その生贄《いけにえ》がはなはだしかっただけ、それだけ美しい花が咲くんだ。歴史が行く道をおれはついて行き、その歴史の櫓《ろ》を押せばいいのだ。
「おい! 伝馬《てんま》はどんどん流れっちまうじゃないか、どうしたんだい」
「船長! 引き潮だから、いくら押してもだめだ。港口に行きゃあ、また流れっちまうだけのもんだ。それよりゃ上げ潮を待った方がいいや」三上はまだ獲物のそばにでもいるように薄気味わるく、ぞんざいな言葉を使った。
「ばかなことをいうな! 夜が明けちまうじゃないか、しっかり押せ!」
「自分でやって見るといいや、これ以上おれたちの腕にゃ合わねえんだから」三上はいよいよ打《ぶ》っつけるようにいい切った。
「何だ! やらないというのか! よし! 覚えておれ!」船長も仕方がなかった。こんなまっ暗がりの海の上でけんかをすれば自分が負けにきまっているのだった。彼は明日《あす》を待つことにした。
「何だと! 覚えておれ? この野郎! 手前《てめえ》は何だって……今日《きょう》の暴化《しけ》がサンパン止めになってる事ぐらいを知らないか、この野郎、手前を海の中にたたき落とすのは造作ねえんだぞ、どこひょっとこめ!」三上は漕《こ》ぐ手を止めてしまった。
三上は、低能だといわれていた。彼にはいろんな発作的の行動があるのだ。船長は、それを知っていた。それでいじけ込んでしまった。ばかに相手になってこの暗い海へほんとにたたき込まれたら、全くそれ切りだってことは、十分に船長も知っていた。
「三上、そう怒《おこ》るものじゃない。え、浜につけば、気に入るようにしてやるから怒らずに、一生懸命やってくれ、え」
「着けば『わかる』んだね。よし来た」仙台はまた、ぼつぼつと櫓《ろ》を押し始めた。
小倉は、おかしかった。「着けばわかる!」三上の野郎首を切られるのがわかるだろう、ばか野郎め! せっかくおもしろいところまで筋が運んだと思ったら「わかる」で済ましちまやがった。フ、これが「労働者」なんだ。だれにでも、たった一言できれいにだまされちまうんだ。これだから、人間の歴史がいつまでも[#「いつまでも」は筑摩版では「いつでも」]、歯がゆくて癪《しゃく》にさわってたまらないんだ。あ、わかる、わかる、全く一切がよくわかる。
しかし全く、心細い「航海」ではあった。海はすぐその足の下でうなっていた。啀《いが》んでいた。そしてそのからだをやけに揺すぶっていた。
三上と、小倉とは、その生活の大部分がそうであると同じに、今もただ機械的に働いているに過ぎなかった。けれども、彼らは、恐ろしく磨滅《まめつ》して来た。いわゆる「焼けて」来たのであった。彼らは十分に栄養を採っているわけではなかったので、機械の油が切れてすぐ焼けて来るように、彼らの肉体も焼け始めたのであった。彼らは、ことに小倉は三上よりも体力が非常に劣っていたので、肩から背へかけた部分、大腿骨《だいたいこつ》の部分などに、熱を感じて来たのであった。それと共に、二人とも、非常な「だるさ」と、力の衰えることを感じた。彼らは「ままよ、なるようになれ!」と覚悟を決めてしまった。
船長も、今は強圧的に、頭ごなしにやっつけるわけに行かなかった。もちろん[#筑摩版ではここに「彼は」が入る]、その精鋭なるピストルは本船に置いて来たのであった。このために彼は、幾分かその憶病さの度が募ったのでもあったが、何しろ、彼は、ただ一人であった。その権力――与えられたる――を保証し、それを暴力化せしめるところの背景が、全然、今、彼に与えられていなかったのだ。
「力が一切を決定するのだ。民衆は、今恐ろしい勢いで力を得つつあるのだ。力が正しく働くか、力が悪く働くか、力が搾取的に働くか、力が共存的に働くか、によって、人類が幸福であるか、不幸であるか、惨虐であるか、平和であるかに分かれるんだ」
小倉は、船内において最大、最高の、公、私、いずれにもわたる権力の所有者である船長が、その一切の暴力的背景を置き忘れて来たために、この短時間の間に、五倍の太さの腕を有する三上の一|喝《かつ》の下《もと》に、縮み上がらねばならぬという喜劇を見た。そして、そこに暴露されたる権力の正体を見た。
「おれたちが力を個々には持っていても、それが組織されていない、訓練されていない、というところに一切の敗因が巣食っているのだ!」小倉は、それが個々に露頭の突き合ったおもしろさから、あとから、あとからと、それについての考えが、わき出て来るのだった。
「だが、おれたちは、今、この万寿丸の状態で、労働者の個々の力を組織することができるだろうか、発作的な、衝動的な、同志打ち的な暴力の発動は、おれたちの仲間にある。(以下八字不明)はおれたちの上にあるのだ。おれたちは、十分に組織された暴力をもって傷つけられる上に、まだ足りないで、自分自身の暴力まで用いて、自分を傷つけるんだ」
小さな伝馬は、その危険なる海上を、その暗黒の中に、船長の地位も権力をも完全に蹂躙《じ
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