ゅうりん》して、まるで冗談のように、クルリクルリと揺れて、一つところにかろうじて漂い得ていた。
船長は、亀《かめ》の子のように首を縮めていた。そして、質においても量においても、小倉と三上との二人分よりも沢山着込んでいるのに、寒さにふるえていた。そして、三上の一言に、まだその顔をほてらせながら、ギクギクしていた。そして今日の潮の長さを、しきりに癪《しゃく》にさわっていた。
彼にとっては、三上が一秒間でも彼を侮辱したことは、三上の生涯を通じて所罰さるべきであり、そのそばに黙って櫓《ろ》を押していた小倉も、その侮辱を聞いたという廉《かど》によって、同罪であるべきであった。そして、彼は、横浜|碇泊《ていはく》中には、やつらが「何であるか」を思い知らせてやらねばならないと決心した。
「それにしても身のほどを知らない、ゴロツキだ。一体このごろの労働者は生意気だったり、小癪《こしゃく》だったり、そうでなければ、仕方のないナラズ者のゴロツキだ。従順な性格を持ったやつは一人もありゃしない。やつらを一人ずつ所罰するのは手間でたまらないことだ。労働者が、これほど生意気になるのは、法律があまり甘やかしすぎるからだ。十五世紀から十九世紀までも英国で行なわれたような、労働立法を制定して、額に烙印《らくいん》を捺《お》すのが一等だ。鞭《むち》で打つのだ、耳を半分切り取ることだ。終身|奴隷《どれい》とすることだ、首に鉄の環《わ》をはめることだ」
船長は、三上が癪にさわってたまらなかった。それはありうべからざることだ。想像だもつかないことなのだ。奴隷に等しいものが「どうも、これははなはだおもしろくない現象だ。そういうことは、根絶しなければならない。いや、全く法律が不完全だ」
船長は、変わった解雇方法で三上をいじめてやろうと決心した。
一七
潮は今、引き潮の最頂点に達した。
万寿丸の伝馬《てんま》も、三上と、小倉との経済速力をもって、港口へ近づき始めた。
十一時におろされた伝馬は、今、十二時半まで、まっ黒やみの中に、吸いつかれでもしたように一つところに止まっていたのだった。
日本波止場まで一時間はかかるのであった。
小倉は勘定していた。「一時半について、それから三時に船に帰って、三時半に伝馬を巻き上げて、四時から、おれはワッチだ。チェッ! 畜生![#「畜生!」は底本では「!」なし] ここでこのままへたばって眠った方が気がきいてらあ、畜生!」
三上は、この時すこぶるおめでたい、がしかし実際的な、そして架空的な、とっぴな計画を立てていた。そして、その計画は、船長が「わかる」ようにしてくれれば、やらずに済むのであったが、もし、おれをだましでもしたら、かまわないから、やってやろうとした、復讐的な意味をも含んだところのものであった。
三上はこう考えた。船長はおれをきっと女郎買いにやってくれるつもりに相異ない。船長だっておれが上陸ごとに女郎買いに行くのは、知ってるんだから、それに今夜は、あんなふうにいってたんだから、きっと「サンパンは纜《もや》っといて、泊まって明朝帰ればいい、サア」といって十円は出すだろう。そこで、小倉は女郎買いには行かないに違いないから、やつを宿屋か何かにほうり込んで置いて、それから……と彼はうっかり笑った。
「もし、万が一、そのままうっちゃらかしてでも行きゃがったら、その時はきっとやってやるから」と、すごい目つきを、闇《やみ》に向かって光らせて「見せた」。
三上は、変態性欲的というか、あるいは不飽性性欲的というか、または、彼の肉体が立派なように、従ってその性欲も、船員のような性的に不都合きわまる条件の下《もと》に置かれては、あらゆる機会を血眼《ちまなこ》でさがし、それをおぼれる者が、藁《わら》をつかむように、しっかりとつかむのであった。彼は、その原始的教養の持ち主として、また、その性欲に関する奇行の創造者として、船内における人気者であった。
彼が、もしその執拗《しつよう》さを今少し制御することができたならば、彼の人気は、も少し深い意味におけるものになり得たはずであったが、何をいうにも、そのしつこさにはだれでも参ってしまった。そして、彼のこの特徴は、彼が遊郭に行く時に、最もよく発揮された。
西沢は、三上と一緒によく遊びに上がったものだが、それは、いくら西沢が逃げても隠れても、三上があとから、付いて行くことに原因したことだった。そして、三上は、西沢の室の前に、腹ばいになって、西沢の寝物語をすっかり聞いたりなどするのであった。それは、何のためであるかはだれにもわからない。ただ、西沢は、「おれと一緒に上がった晩」こういったというのだ。つまり「西沢が相手の女に向かって、『お前はどうしてお女郎になるような身になったんだ。いずれ、深い事情があるだろう』と、きいたところが、その女郎め『わしのうちは、おとうさんが百姓で貧乏だったところへ、不作が三年続いて、地主に掟米《おきてまい》が納められずに、苦しみ抜いたあげく、ついに私が身売りをして、地主に義理を立てることになったの』といったんだ。そして、その女め鼻声になって、『世の中に義理ほどつらいものはないわ』といったんだ」
この話は三上の直接の、彼自身だけに関する露骨な淫猥《いんわい》な話よりも、聴衆に受けがよかった。で水夫たちは、西沢が全力をあげて混ぜっかえすにもかかわらず、三上をおだて上げて、その睦言《むつごと》の全部を繰り返させた。
「そうすると、西沢のど助平め、何というかと思ったら『や、義理ほどつらいものは全くない。そして、そのつらい義理を守るのは貧乏人ばかりだ。義理を守るから貧乏にもなるんだ。私の家も貧乏で、ちょうどお前さんくらいの妹がある。その妹も、やはりお前さんのように、このつらい商売をして、私と一緒に信州の親たちに仕送っているんだ。私は妹からのたよりで、お前さんたちが、どんなにつらい境界《きょうがい》を送っているかよく知っている。ま、年《ねん》の明けるまで辛抱しなさいね。決して短気を起こしたりなんかしないでね』ってやがるんだ。畜生! ばかにしてやがらあ、そしたら女のやつしくしく泣きながら、『あんたのようによく物のわかった、親切な人はありゃしない。私は、あなたが私の兄《にい》さんのような気がする』といいながら、何かしていてあとは聞こえなかったが、今度は、西沢め、『おれもお前が、私の妹のように思えてならない』ってやがるんだ。それからはもうほんのコソコソ話になってわからんから、おれは障子に、指に唾《つば》をつけて、穴をあけてのぞいてやったんだ。そうしたらお前」と、三上一流の頭脳に映じた、その場の情景を、全くおおうところなく、すっかり、さすがの西沢もいたたまれないほどの、描写をもって、そこに再現してしまった。そして最後に、「よくよくこいつには妹が沢山あって、方々で女郎をしてやがるんだ。そしてまた、妹のように感じる女とどうして、やつはああいうことができるんだろう。ど助平めだよ、あいつは」とつけ加えたのであった。そして、この点に関しては三上のいうことは真実であった。
わが兄弟たちは、船乗りになるまでに非常に多くの苦しい経験をなめて来ている。そして、小倉などは、一村の運命をになって志を立てようとしていた。地理的にいっても、社会的にいっても、海は最も低いところで、そこへ流れて来た「人間のくず」どもは、現社会の一切ののろいを引き受けて来ているように見えた。
女郎買いをすることは、船員の常習[#「常習」は底本では「学習」と誤記]であるといわれていた。ことに下級船員は、そのために、全収入を蕩尽《とうじん》するのだと、社会は例外なく考えている。そして、それは、多くの場合事実である。が、それがどうしたというのだ。
彼らも女郎買いをしたくはないのだ。愛人が必要なのだ。だが、今の社会で口のあいた靴《くつ》をはいて、油だらけの菜っ葉服を着て、足の踵《かかと》のように堅い手の皮を持った、金をそのくせ持っていない、「海坊主」を、だれが一体相手になってくれるんだ! いつ海の藻屑《もくず》と消えるか、いつ片手をもぎ取られるか、いつ、遠洋航路につくかわからない、無細工な「海坊主」どもを、どこの「娘」が相手になるか。
ブルジョアどもは、その娘をダンスホールへ陳列し、プロレタリアの娘を、監獄のよりも高い煉瓦塀《れんがべい》の取りめぐらされた、工場の中に吸い込んでしまって、その中の上出来なのを、自分らの玩弄物《がんろうぶつ》なる「妾《めかけ》」にしてしまうんだ。
ブルジョアどもは、人間を、自分たちを除いた一切の人間たちを、字義どおりの「馬車馬」的賃銀|奴隷《どれい》にしたいという、本能的な欲求を持っているんだ。
そして、労働者は、生きたまま、何万馬力の電動機によって運転されている「挽《ひ》き肉器」の中へと、スクルーコンベーヤで運び込まれるのだ。
こうして、賃銀奴隷は最後まで、人間でありたいという希望と努力を挽き砕かれて、無機物か何ぞのように、ブルジョア文化の路傍へほうり出されるんだ。そして、それは、ブルジョア道路を永久的にするためのコンクリート中の一石塊となって、永久に、道路の一部をなすように、計画されてあるのだ。
だが、今はもうその計画どおりには行かないだろう! われらに教育がないということは、われらから、教育の機会を掠奪《りゃくだつ》したやつらに責任はあるが、やつらに責任を負わせたってそれで労働階級がどうなるんだ。今、われら自身でわれらを教育するんだ。今、われらは、すべてを自分の手でやって見せようと意気込んでいるんだ。われらを教えわれらを導き、われらの理想を作り、われらの戦術を考え、われらの道徳を定め、人類共同の社会を建設する。それらは皆、われら自身でやるんだ。そしてわれらとは、すべて額に汗して働くもののことだ!
一八
伝馬《てんま》はすべった。そして船長は寒くて、二人《ふたり》は汗まみれになって、日本波止場へついた。
船長は、飛び上がった。トランクも投げ上げられた。
小倉は、纜綱《ともづな》を波止場に纜《もや》った。そして二人ともその浮波止場に飛び上がった。
船長は、まだ十分その権力が裏づけられていなかった。船長は、ポケットから、その金時計を出して、機械マッチで今が一時四十分であることを知った。彼は自動車で十五分、二時には家へ帰りつける。で早く、「この油断のならないナラズ者」どもを、本船へ帰してやらねばならなかった。
彼はポケットから、五十銭銀貨を二枚つかみ出して、それが確かに二枚であることを知って、それを、小倉に渡した。
「蕎麦《そば》でも食ったらすぐ帰れよ! おそくならんように」そういうと彼は、そのままトランクを持ってスタスタ歩き始めた。
「船長!」と、三上は、思わず叫んだ。
船長はビックリした。危うくトランクを取り落とそうとしたほどビックリした。そして何も考える間もなく、三上は船長の前に立ちふさがった。
「どうしたんだ。わからねえや」三上は啀《か》むように怒鳴った。
小倉は、静かに、黙って、成り行きを見ていた。「おれはこの場合すべき事を知っているんだ。ものは始まってからでなければ済むものではない。だが、それはまだ始まっていないんだ!」
「小倉に金を渡しといたから、あれで何か食べて帰れ!」船長は、自分の立っているところが、まだ波止場であることは、非常に形勢を不利にすると、考えていた。――逃げるには逃げられぬわい――
三上は、黙って、船長の前に突っ立っていたが、やがて、身を引いた。
船長はホッとしながら歩きかけた。三上はまた突然その前へ行って立ちふさがった。
――今度は何か起こる――と、船長も、小倉もとっさに感じた。
三上は万寿丸で、一番強力だった。横痃《よこね》のはじけそうな時でも、二人分の力持ちを、平気でやった男だ。
「忘れちゃいないね」と、三上はうなった。
「あ、そうか、そうか」と、船長はいって、またポケットへ手を
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