突っ込んだ。そしてガサガサあわてながら、また五十銭銀貨を二枚つかみ出した。「スッカリ忘れてた」
「まだ忘れてるよ」三上は押っかぶせるようにいった。
船長は、五十銭玉を二つつかんだまま、ブルブル震えながら、そこへ突っ立っていた。早く帰りたいのになあ。チェッ!
「いくらいるんだね」とうとう船長はごまかし切れなくなってきいた。
「十円」三上は答えた。
「十円!」船長は、すっかり驚いた。二円出したことが彼にとっては、とても思い切った奮発だったのに。三上は十円を要求するのである。
「それや明日《あす》でよかないか」船長は明日は一切を解決することを知っていた。
「明日は明日だ」といったが、三上の心中には、今、口から出したくらいでは、とてもはけ切れない激怒の情が、その全身の中に爆発した。
「今夜帰れば途中で凍えるわい!」と、彼は、船長の頭の上から、ハンマーででも打ちおろしたように怒鳴りつけた。
「手前《てめえ》は帰ってかかあと寝る! おれたちゃ帰りに凍えるわい! この汗を見ろ!」
暗《やみ》に見えなかったが、二人は外は飛沫《ひまつ》にかかってぬれ、内は汗でぬれ、かわいたところは、その衣類にも皮膚にもなかった。彼らはそのまま、帰るということが不可能であることは、最初から感じたところであった。その合羽《かっぱ》はもちろん、その仕事着さえもパリパリと凍っていたのである。
船長は十円に非常な執着を感じたが、それよりも彼はやっぱり、その命の方に団扇《うちわ》を上げた。彼は内ポケットから、十円札を出して三上に渡した。そして、何かいおうとしたが、ハッと口をつぐんだ。
そして、彼はそのまま、波止場を出て、俥《くるま》の帳場へ行った。
彼はそのまま、警察へ電話をかけようとしてまたやめた。今夜かけると、おれは家で寝るわけには行かなくなる。それにおれは今夜は上陸してはならないはずなんだ。それはごまかしはついても、とにかく、今夜は家へ!
俥《くるま》の帳場は、同時に自動車屋を兼ねていた。船長は自動車によって、その家へと宙を飛んで帰った。そして、途中の計画をすっかり忘れて、自分の家の前まで自動車を乗りつけてしまった。
彼は、暖かい家庭の人となった。妻は、彼がおそくなった事情は、「水夫の一人《ひとり》で三上という悪党がワザとそうしたのであって、おまけに主人から十二円を強奪した。そのために主人は一時身が危険であった。主人は、いつでも、家から出て行くと、まるで、強盗殺人の中へションボリ置かれているようなものだ」と思い込んでしまった。そのくせ彼女は、いつも今まで主人の口から「おれは船中で一番えらい地位を持っていて、船員ならどんなやつでもフン縛ることまでできるんだ。それで船ではおれは、いわば陸でいう王様のようなものだ! おれは自由に手足のように船員を使うんだ。そしておれがいないと、あの大きな汽船が、まるで動くことができないんだ。とまれ、万寿丸では王様だ」と聞いていたのだ。で、今は、そのどちらでもあるのだろう。「船の中には、まともな人間としては主人だけだろう。あとはナラズ者がそろっているのだろう」と、考えた。
二人は床の中で夜の明けるまで話した。
一九
三上と小倉は、水からはい上がった犬のような格好で、サンパン小屋の前へ行った。そこは、ルンペンプロレタリアがサンパン押しとして、虱《しらみ》のように、ウヨウヨ小さな家の中に詰め込まれていた。そこは、昼も夜もなかった。そこに集まっている者はすべてが、永劫《えいごう》の昔から、無限の未来まで、そこで寝ころんででもいるというような感じを与えた。彼らは、あらゆる悪徳と、自暴自棄と、そうして飢餓との頂点から、いつでも、決して離れたことがなかった。
死にかけた犬にも蚤《のみ》やだにがついているように、飢えたる彼らの周囲にも、飢えた小売り商人が大福|餅《もち》や巴《ともえ》焼きなどを、これもほとんど時なしに売っているのであった。
その夜は、それらの夜店も見えなかった。
三上と、小倉とは、その凍寒と、飢餓とから逃《のが》れるために、旅籠屋《はたごや》か、飲食店かをさがさねばならなかった。彼らは、それ以上、寒さにも飢えにも堪《た》え切れないように感じた。彼らは、そのよく知った地理によって、夜おそくまで、あるいは徹夜でも営業する飲食店が、どの辺にあるだろうとの見当はついていた。
それは彼らが今さまよっている海岸付近か、でなければ遊郭の付近であった。
彼らは、大通りに出た。そして十五、六間も歩いた時、その横丁に港町独特の飲食店がまだ起きているのを見いだした。二人はすぐ、そこにはいった。二人の異様な風態も、その凍えたぬれたところなども港町の飲食店はなれていた。幸いに、二人は、そこの一室へ、そのズブぬれの靴を脱ぎ、その着物をかわかしうることになった。二十七、八になる女中がすぐに火鉢《ひばち》へ火を入れて持って来た。
「どうしたの、ちょいと、今ごろ、今入港したの! そうじゃない? まあ! 随分ぬれててね。若いからよ、ホホホホ。脱いでかわかしなさいな。ね、私、着物を持って来て上げるわ、泊まってくんでしょう。もちろんだわね。ホホホホホホ」
彼女は全くの親切からのようにそういった。そして、下へ降りて行った。どてらでも持って来るのらしかった。
三上はもちろん喜んだ。そして彼はもちろん泊まる気でいた。小倉も一人《ひとり》で帰るわけには行かなかった。それに彼は三上の今夜の事件を、どういうふうに処置をつけるか、考えねばならなかった。――船長は明朝になったら、三上を懲戒下船命令を発して、一年間あるいは三年間ぐらいは乗船不可能にしてしまうだろう。それだけでなく、それだけで済めばいいが、事によると、恐喝《きょうかつ》取財ぐらいで告訴するだろう。これらについても自分としては何とか考えをまとめて置かなければならない。それにとにかく、こんなにズブぬれのガツガツの飢えではしようがない。そこで、二人は腹をこしらえることを考えた。
「ねえさん、おそくなって済まないがね、もしできたらすきやきがやりたいんだがね。寒いんだから、すきやきでないととても暖まらないからね」と小倉は注文した。
「ええ、できるわ、きっと、あなたの事だから。ホホホホホ、お銚子《ちょうし》は?」と立ちながら、彼女は聞いた。
「酒を持って来るんだ」三上が受けた。
「ホホホホホ、一切合財皆もちろん、――だわね」と唄《うた》にしながら、下へ注文を通しにおりて行った。
二人は、どてらに着換えて、その着てたもの全部を、柱にかけた。
彼らは人が恋しかった。ことに女が恋しかった。どんな動機からであろうとも、彼らに優しい言葉をかけてくれる女性は、この地上に、もし生きていればその母か姉妹だけであった。
けれども、彼らは、それらをまるで失ってしまっていたか、まるで知らなかったか、または、それをはるかに遠くへ残して来ているのであった。
優しい女性! それは、彼らには、何物よりも貴《たっと》い宝玉であった。一切の歴史から虐《しいた》げられて来た、哀れなか弱い女性! 彼らが反抗する必要のない、彼らによってまでも愛護されなければならない、[#「、」は底本では「。」と誤記]虐げられたる女性、それは、虐げられさいなまれて来た労働階級と、よく似た運命を持っていた。
彼らは女性を慕った。そして、それが娼婦《しょうふ》と淫売婦《いんばいふ》とに限られてあった。女の中でも最も弱い階級と、男の中で最も虐げられた階級との間には、ブルジョアがそれらに対する時と違って、どこかに共通な打ち解けた点があった。それは共同の敵を持っている味方同志であった。
表面的の関係は買い、売った、ことになっても、彼らにきわめてわずかに残された人間性が、それを、人間的に引き戻す機会もあり得た。そして彼らはどちらも、プロレタリアであった。
荒《すさ》みにすさんだ心に、落ちる一滴の涙は、どんなに悲しいものであるか。
女はやがて牛肉を鉢《はち》に並べて持って来た。そしてそのあとから今一人若い二十二、三の女中がお燗《かん》のついた銚子を持ってはいって来た。
女がいたり、酒があるということは三上を有頂天にした。彼は一人《ひとり》でしきりに飲んだ。女たちにもしいた。少しは彼女らも飲んだ。
「どうしてあなたは少しも飲まないの」と、若い方のが、小倉にもたれかかりながらきいた。
「その代わり食ってるだろう」
「だって、私たちもいただいてるんですもの。少しは飲むものよ、男ってものは、ね」
彼女は小倉が生《き》まじめで、肉ばかり食ってるのを見て、少し陽気にしてやろうと考えたらしいのだった。
「ところが、僕は酒が飲めないんだ。船のりらしくもないだろう。でもやっぱり飲めないんだ。虫がきらいというんだろうね」といいながら、小倉は肉や葱《ねぎ》などをつつきながら、頭は纜《もや》いっ放しの伝馬《てんま》のことと、三上対船長との未解決のままの問題との方へばかり向いていた。
で彼は、三上が、しきりに女をからかったり、例の変態的な性格でいやがらせたりしながらも、小倉の方に時々探るような目を注ぐのに気がつかないのだった。
三上は、やはり、船長との一件で小倉の意見が聞きたかったのであったが、それよりも、彼は、その場の喜び、形式だけであるかもしれない、事実それに違いないところのその浅い喜び、ほとんど通常の陸上の人から考えると嘔吐《おうと》を催すかもしれない、その女たちの風体、態度、その他一切の条件にもかかわらず、それを長い間そのために一切を捨てて探《たず》ねあぐんだ冒険者が、金鉱でも発見したかのように、その喜び、その楽しみから、一歩も足を踏みはずしたくなかった。実際三上は、もし、ほんとうに三上を愛する女があったら、彼はその女のためにどんなことでも虚心平気にやってのけたに違いない。彼は、生まれてから、すぐにその生《うみ》の母親に死に分かれて、それっ切り、人間に愛があるということはおろか、子供に乳があるということすらも知らずに育ったのであった。彼はきわめて幼い時から、海べへ出て、漁夫の手伝いをした。そして自分の食う分は五つぐらいの時分から自分でかせいだ。そして彼は小学校へ行く代わりに鰹船《かつおぶね》で太平洋に乗り出した。沖を通っている、山のような船の中に「洋服」を着た人間が働いているのを見て、「自分も洋服を着て働きたい」というので、鰹船を捨てて、汽船乗りになったのであった。彼は、だれからも、ほんとに愛されたことのない人間であった。まただれもほんとに心から三上を愛する気にはなれないだろうと思えるほど、彼は異様にひねくれていた。そのくせ、彼は、「だれかがほんとにおれに親切にしてくれたら」と、どんな時間にでも思わぬことはないのであった。従って、彼は、西沢が女郎に愛されたという話を聞くと、きっと、彼はその女の名前をきき出して、次航海には、ソーッと一人《ひとり》で、「愛」とはどんなものかを探りに行くのであった。三上のこの心の秘密は、だれも知らなかった。であるから、彼は変態性欲者と、その真実の「愛」を求める原始的巡礼の状態を名づけられたのであった。で、彼は自分が、他にとって、決して真摯《しんし》な愛に相当しないことをさとって、自らもジョーカーとなったのである。
三上は小倉を盗み見しては飲み、かつ、その年増《としま》の女を捕えて悪ふざけしていた。が、小倉は黙って食っていた。小倉の相手の女はとりつき端《は》がなくて、困っていた。三上が便所に立って、相手の女も続いて案内に立ったあとで、小倉のそばにいた若い女は、「どうしてあんたはそんなに黙ってるの、何かおもしろくないことがあって? も一人の人はあんなにはしゃいでるじゃないの、それとも、もうあんたは眠いの?」とその膝《ひざ》にもたれながら小倉にきいた。
「あの男はね、かわいそうな男なんだよ。あの男の事を僕は心配してるんだ」と小倉は答えた。
「どうして、あの人がかわいそうなの。私ならあ
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