れよりは、はるかにいい待遇が与えられていますよ。その監獄よりひどいのが、万寿丸で、その船長が吉長武《よしながたけし》といわれては、あなたの名誉でもなかろうと考えます」
 藤原は、また思い切ってやったものだ!
 船長及び士官らの、憤慨ぶりは頂点に達していた。彼らは、椅子のクッションのように赤くなったり、海のように青くなったりした。彼らの憤慨と同じ比例で、水夫らは喜んだ。
 「全くだ!」とうとう波田が怒鳴ってしまった。
 「そうだ!」波田の気合のかかった言葉につり込まれた、扉《とびら》の外の火夫たちは、一斉に喊声《かんせい》をあげた。
 「第一、私たちは、肉体を売る資本家かもしれない! だが、要するに、私たちは生きているんです。おまけにまだこの上も、生きて行きたいと思っているんだ。生きて行きたくなけや、こんな船になんぞだれが乗るもんか、畜生!」波田は、まだまだ言わなければならないことが、山のようにあった。あまり言うことが多くて、彼の言葉がスラスラと出なかったために、畜生! で爆発してしまった。
 「だれが畜生だ! 失敬な」船長は、夢中になって立ち上がった。
 扉口《とぐち》の外からは、罵声《ばせい》と足踏みとが聞こえた。「燃やしちゃうぞ!」と聞こえた。
 私はこの「燃やしちゃうぞ」と言う言葉の来歴を話したいが、ごらんの通り今はとても忙《せわ》しくて。
 「そうではないか!」波田は立ち上がった。
 「尊い人間の生命を等閑にしたのは、どいつだ! ボーイ長でも、父と母とから生まれて、人間としての一切の条件を、貴様らとすこしも異なるところなく、具備しているんだ! それだのに、どうだ! ボーイ長が負傷してから、一度でも、貴様は、彼のことを考えたことがあったか、貴様に、人間の生命を軽蔑《けいべつ》することをだれが許したんだ!」
 彼は夢中になってしまった。
 「もし、貴様が、この上も、ボーイ長に対して、畜生の態度をとるなら、おれにも、覚悟がある! 貴様がボーイ長を見殺しにするなら、おれは……」とうとう波田は、その腰にさしていたシーナイフを引き抜いた。
 「あぶないっ!」と皆が叫ぶ前に、彼は、それをテーブルの上に、背も通れと突きさした。
 「おれは、畜生に対して、人間として振る舞われないんだ!」
 一座は、死んだように静かになった。扉の外の連中は、目ばかりになって、息を殺して成り行きを見張っていた。
 「貴様は、権利を持っている。この地上には、むやみに多くの権利が、他の権利を蹂躙《じゅうりん》することによって存在してる。だが、船長、いいか」彼はテーブルを、今度は拳骨《げんこつ》で食わせた。「人間を、軽蔑する権利は、だれもが許されていないんだ。また、他人の生命を否定するものは、その生命も、否定されるんだ! わかったか」彼は、そこにそのまま、すわることを忘れたようにつっ立っていた。彼はにらみ殺しでもしそうな目つきで船長を見据えていた。それは、まるで、燃える火の魂のように見えた。
 ストキは、波田の突き刺したナイフを静かにテーブルから抜き取った。そして、自分の席の前に置いた。
 船長は、ピストルを持って来なければならなかったが、そこを立つわけに行かなかった。彼は、初めて、彼が、ほとんど、歯牙《しが》にもかけなかった、低級な人間の中に、高級な彼をも威圧して射すくめてしまうだけの威厳を見た。それは、全く、何も持っていない、一人《ひとり》の労働者だ。地位も、金も、系累も、家も、それこそ何にもない、便所掃除の労働者の青二才じゃないか、だのに船長は椅子から立ち上がれなかった。
 彼は一度立ち上がって、途中で、グズグズとすわったことを悔いた。その、彼の前に立っている労働者が彼からその「煮える」ような眼光を放さなければ、彼は立てなかったのだ。
 それは、彼の職業的な、因襲的な、尊厳を傷つけるものであった。そして、一度負けたが最後頭の上がらない鶏のように、その後は、彼を永久に圧《おさ》えつける一種の不快な、重しになるであろう。それは脅迫観念にとらわれた病者が、何もないところに、恐るべき幻影を見て、狂い続けるのと同様であろう。それは見かけ倒しの立派な、芝居《しばい》の建て付けに、全身の信頼をもってもたれかかって、一緒に倒れるのと同じ人々の運命であらねばならぬ。彼は、芝居の建具によっかかっていたのだ!
 「貴様は、大きな錯覚に陥っていることを、自分で知らないんだ! 貴様だって、被搾取材料だ! でなきゃ[#「でなきゃ」は底本では「できなきゃ」と誤記]幇間《ほうかん》だ! 自分自身が何だってことを、内部からハッキリ見詰めろ! もしボーイ長を、この要求どおり、この要求は、あまり遠慮がしすぎてあるんだぞ、いいか、もし、これを許さなかったら、おれには覚悟があるんだ。おれが、覚悟を持ってることは、もう言わなくてもわかってるだろう。サア! くだらない筋だの、金ピカだのを除《と》って、人間として、人間の要求に応ずるがいい」
 波田はその椅子の上へ、ドカッと腰をおろした。そしてシーナイフを藤原の前から取って彼の尻《しり》っぺたにブラ下がっている、その帆布製の鞘《さや》に収めた。
 人々は初めてホッとした。彼がライオンのように、あばれ回らなくて幕になったことが、だれもを安心させた。実際、それはまあよかったとだれもを感じさせた。
 船長は、まるで、ばかにしたような態度を、要求書へ向けていたのだが、今では、それが非常に尊いものででもあるように、チーフメーツの前から、自分の前へ引き寄せて、ながめ初めたのであった。この紙っきれに、あの情熱と憤懣《ふんまん》とが織り込まれてあったのだ! 彼は、それを引き裂かなかったことを今になって喜んだ。
 それを引き裂きでもしていようものなら!
 「それで、その要求書にある条項を、一々説明しましょうか、もし、お求めになるならば」藤原は言った。
 「いいや、説明には及ばないだろう。大抵わかってるだろうから。しかし、一応メーツたちと相談しなければならないから、お前たちは、ここでちょっと待っててもらいたいね。ちょっと相談をして来るから」と藤原へ言って、「どうぞ私の室まで」とメーツらに目くばせをして、彼は船長室へ又候《またぞろ》はいって行った。メーツらは続いた。
 「波田ってやつあ、どえらいやつじゃねえか」とサロンの外では、波田の行動に対して、賞賛の辞を惜しまなかった。「あれに限るよ。あれで行きゃ、こちとらだって、いつでもこんなに苦労しなくても済むんだが」
 「そうさ、力の強いのが勝つんだ。おれたちゃのまれてるんだ」などと火夫たちは、その場から去ろうとはしなかった。
 水夫たちは、相手がいなくなったので、極度の緊張から解放されて、煙草《たばこ》に火をつけて、休憩した。
 「どうだい、ボースン、お前の代わりまでいいつけられたじゃないか」波田は、ボースンの方を向いて言った。ボースンは、まるで、ひどく頭でも打たれた者のように、ボンやりしていた。出し抜けに船長を斬《き》ったりするやつは、彼も見たことがあったが、口も手も、これほど達者なやつは見たことがなかった。「それにやつはまだ子供じゃないか」ボースンは、びっくりしてしまっていた。「いや、どうも知らなんだ」そのはずであった。
 波田は、酒も飲まず、女郎買いもせず、おとなしくして、よく仕事をする評判な青年だったのだ。「全く、人は見かけによらないものだ!」
 「え、どうだいボースン?」今度は藤原がぼんやりしてるボースンにきいた。
 「え、ああ、おれあぼんやりしてたよ」彼はほんとにぼんやりしていた。
 「冗談じゃないぜ、しっかりしてくれよ。皆大汗で働いてるんじゃないか」
 西沢と小倉と宇野と波田と、この四人は交渉条件のことについて、何かしきりに話し合っていた。
 そこへテーブルの上へ、機関部のボーイ長が、紙っきれを持って来て載せた。そして「これを機関部から」といってそのまま、逃げるようにして飛んで行った。
 西沢は、その紙っきれを開いて見た。
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フントウ ヲ シャス、セイコー ヲ イノル、キカンブカフ 一ドー セーラー ショクン
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と電報文みたいに片仮名で書いてあった。
 彼らはそれを見て、戸口の方を向いて、手をあげて合図をした。
 「徹底的にやれ、罷業《ひぎょう》になれば、火は焚《た》かんから」戸口の外からだれかが怒鳴った。
 四人はそれを藤原に見せた。彼は「ありがとう」と叫ぶのを忘れなかった。
 やがて、船長室に密議を凝らしに行ったメーツらはサロンへ引っかえして来た。
 要求条件には念入りにも、船長と、チーフメーツとの判が並べておしてあった。
 「皆と相談の結果、要求を容《い》れることにしたから、今からすぐに働いてもらいたい、ボーイ長は、横浜着港と共にすぐ入院させるし、その他の条件も、即時実行することにしたから」船長は、低い声で言った。彼は自ら進んでこの条件を、認容したのだといったふうに、見せかけたかったが、あまりにも狼狽《ろうばい》した彼にはその方法もできなかった。
 「バンザーイ」「態《ざま》を見ろ!」「労働者フレーフレー」などといいながら扉の外の火夫たちは、ドヤドヤと立ち去った。
 「それじゃ、今からすぐに仕事にかかってくれ」チーフメーツは言った。
 「ヘー、かしこまりました」ボースンは答えた。
 「どうもありがとう存じました」藤原は、判のおされた要求書を、ポケットに収めながら言った。
 彼らはおもてへ帰って行った。
 水夫らは勝利を得た。だが、何だか物足りない感がだれもの、心のすみにわだかまっていた。彼らは、何かの予感を感じていたのであった。
 火夫室の前では、彼らは、万歳を三唱してセーラーを迎えた。
 その日の出帆は、それでも、水夫らにとっては、「凱旋《がいせん》将軍の故国への船出」の感があった。

     四六

 その航海は異様な航海だった。水夫たちは人間として、取り扱われ初めたように見えた。命令を発するところのメーツらは、彼らが単に、作業の分担的任務から、行動するように命令した。そして、その内容も整頓《せいとん》され、そのために同一の効果に対して、水夫たちは以前の三分の二の労働と時間とで済むくらいになった。
 船長にしろ、ほかのどのメーツにしろ、今では「ゴロツキ」の下級船員たちが、ただもう「みじめに働いている」と言うことだけに、その興味を持たなくなったように見えた。下級船員たちが、「人間」らしくあるということが、今では、彼らの権威を傷つけるという、その妄想《もうそう》から彼らは、解放されたように見えた。
 どことなしに、いや、それどころではない、はっきりと彼らは、あまりに現金すぎるほどに、水夫たちはおろか火夫たちにまでも遠慮していた。
 それは、内実を知らない人々から見ると、平和であった。そして万事が控え目であった。「謙譲なるメーツらよ!」と知らない人は、それが労働者であっても、ほめたであろうほど、静かであった。従って、船員たちも「ゴロツキ」ではなかった。
 彼らも、彼らが人間らしく振る舞い得、また、そうすることを、禁じられさえしなければ、彼らは立派に――人間らしく振る舞った。
 水夫らは、自分らに酬《むく》いられる、労銀は何であるか? ある者は知り、多くは知らなかった。ただ彼らは、彼らの生活がはなはだしく脅かされる時だけ、仲間《ちゅうげん》のような彼らの忠実さから、彼らは、自身に立ちかえるのであった。そして、彼らは、それに成功することもあったが、多く失敗した。ことに決定的な立場から言えば、彼らは、まだ、要求してもいないのに、たたきつぶされたのであった。彼らは、三上のように、あるいは、波田のように、あるいは小倉のように、西沢のように、自分をだんだん強く羽がいじめにする、労働条件から免れようとして、個人的に行動した。
 彼らの行動はまるで相反するようにも見えた。そのことについて彼ら同志の間にけんかさえも起こった。だがそうしたのは、彼らの上に重っ苦しくおお
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