ハッハハハハハ」とうとう船長も、あまりのストキの言葉にふき出してしまった。「恐ろしい資本家もあったものだ! ハッハッハハハハハ、蚤《のみ》と南京虫《なんきんむし》のだろう!」
 メーツらは皆笑った。セーラーたちが、資本家とは珍しい言葉だった。
 「もし、私たちを資本家だと思っていないのならば、奴隷《どれい》と思ってるだけです。私たちの売ることのできるものは、私たちの労働だけです。つまり『からだ』だけです。だが、それも、私たちのものでないと考えられるならば奴隷だ、と考えられることになるのでしょう。しかし、奴隷だったら、なぜその奴隷の生命を大切にしませんか。奴隷は、あなたたちの財産じゃありませんか。私たちの生命が、あなたたちにとって、まるで、どうでもいいものになったのは、私たちが奴隷から、資本家、すなわち賃銀奴隷になったからです。それは、とっかえるほど新しい、いい商品が、無限にあるからです。
 それに、私たちは、いつまでも、どんな奴隷ででもありたくはなくなったんです。どんな機会にでも私たちは、私たちを縛る鉄の鎖を打ち切る用意をしているのです。
 私たちは、人間として、生きようとしているのです。そこへ持って来て、どうです! 私たちは蚤と南京虫の資本家! なんでしょう、私たちは、その要求が通ればよし、通らなければ、私たちの力がどのくらいあるかを、お目にかけるまでです」
 ストキは最後の言葉に、力をこめて言い切った。
 「フン、それもよかろう。だが何かね。波田、おまえは自分から進んで、この要求書に捺印《なついん》したんじゃないだろうな。だれかが、お前を煽動《せんどう》したんだろうな」船長は、方向を転換した。
 「私は、どの船でもストライクの種を、見つける役目をするつもりで、船のりになったんです。私は、この船に乗った最初の日から、風呂場《ふろば》のないことでも、ストライクがやれると考えていたのです」便所|掃除人《そうじにん》波田は、風呂場のないことに、だれよりも、苦痛を感じていたのだ。それに、彼は、若くて新しい社会の空気を吸っていたのだ。船長はこの無邪気な、彼の便所を彼の居室よりも、金具などきれいにみがき上げるこのきれい好きな、忠実な青年が「過激派」であろうとは思わなかった。それに「こいつはストライクを見つけて歩くなどと、抜かしやがる! まるで、こいつらはパルチザンだ!」
 船長は、意外に、水夫らが結束を固めているのを見た。それは、発作でもなかったし、衝動でもなく、計画されたものであったのを知った。
 この時、火夫室ではまた、喊声《かんせい》が上がった。それがサロンへ響いて来た。
 出帆時刻は、どんどんとおそくなる! 正月はどんどん近くなる!
 船長は、いら立って来た。
 「西沢、貴様はどうだ。宇野《うの》(捺印した舵手《だしゅ》)、小倉、貴様らも同意した、捺印したんだな。よし、チーフメーツ! ボーレンへ至急行って、水夫四人、コーターマスター二人《ふたり》、ボースン一人《ひとり》、――とうとうボースンにも祟《たた》りは来た――すぐ、万寿丸へ、チャンスだといってくれたまえ、そして、こいつらを乗船停止を命じて、それを雇い入れてくれたまえ、出帆が、あまりおそくならないように、今からすぐかかってくれたまえ!」彼はチーフメーツに命じた。
 その結果は、水夫らは、昨日《きのう》からもう知っていたのだ! 室蘭じゅうのボーレン(それは半素人《はんしろうと》のも入れてたった三軒切りないのだ)――に、昔船のりだった、そのボーレンの主人が二人と、一人の沖売ろうとがいるだけなのだ! 彼らは、陸上に一軒を経営しているのだ! 彼らは、どんなことがあったって、十三円や十八円で、一家の生活を保とうとして船に乗る気づかいはなかった。ストライクブレーカーはおあいにくであった。「そのくらいのことは、おれたちだって気をつけてるよ」と藤原は言ってやりたかった。波田はもうムズムズしていた。
 ボースンは驚いた。その職業と、月二割の利子――もっともうち、一割はチーフメーツ(実は船長かもしれない)が、上前をはねるんだが――とが、フイになるのである。しかも、彼は、何をしたんだ! ただ、忠実な番犬だったのみではなかったか。彼は、功労こそあれ何の過失があったか、すでに、彼は、いったんの危急をチーフメーツのために、救助さえしたではないか。
 「しかし、これは船長に何かの深い考えがあることだろう。一度、皆の前でそう言って、ボースンは代わりがいない――と言うようなことにするつもりなんだろう。でなきゃ、船長だっておれの首を切れた義理じゃなかろう、おれがいなけゃ、あの妾《めかけ》だってあんな具合に、お安く手に入らなかったに違いないんだから」
 哀れなボースン、彼は憶病犬みたいに、半信半疑で、主人の心を探っていた。だが、ボースン、君が、君自身のことを考えるようには、他の人は決して君のことを考えてはいないんだ。君自身が食えなくて餓死する刹那《せつな》にだって、他の人は妾のことや、芸妓《げいぎ》のことなどを考えてるのだ! 他の人は、全く、他の人の身の上のことなど、てんきり考えはしないんだ。他の人とはお前を使うところの人だ、わかったか、ボースン!
 だが代わりは、ボースンに限ってないわけではなかった。それは、室蘭じゅうに一人のボーイ長の代わりだってなかった。
 チーフメーツはややこの点に、その考えを向けるだけの余裕を持っていた。
 「船長」と彼は、船長の回転椅子の背後から、低い声で船長を呼んだ。
 「チョッと」と彼はあとしざりした。
 「何だね? うん、ああそうか、じゃあ室へ」チーフメーツへ言った。チーフは船長室のドーアの中へ消えた。
 「お前らは、ここへ待ってろ!」水夫たちにこういうと、船長は、チーフメーツのあとを追って自分の室へはいった。
 船長も、その辞書の中から、不可能という字を、削る冒険はするくらいな男であった。従って、チーフは、船長に室蘭でそれだけの労働者を、即時に得るということは「不可能」だと、いいたかったのであった。が、船長は、全く、始末にいかぬタイラントであった。それは、コセコセしたちしゃの葉のような感じのするタイラントだ。
 「船長、室蘭にはボーレンが一軒切りありませんが、ね、……」彼は、どうだろうといったふうに、
 「正月前だから、休んでいるものがないだろうと思うんですがね」チーフメーツは切り出した。
 「もし、室蘭になかったら小樽《おたる》か、函館《はこだて》から呼ぶんだ。えーっと、しかし、そうすると横浜帰航が大変おそくなるね。だが、室蘭に五人や十人の船員がないってことはないだろう。君は調べて見たかね」船長はきいた。
 「実は、入港するとすぐきいて見たのですがね。二、三日前までは、三、四人休んでいたが、便をかりて横浜へ行ったとか言ってたんです。だから、それから一週間にもならないんだから、とてもだめだろうと思うのですよ。で、なけれや私もストキは、早く処分しなけりゃならないとは思っていたのですから、代わりさえあれば、ここで下船させるつもりだったんです。あれさえいなけりゃ、何《なあ》に他の連中は尻馬《しりうま》に、乗ってると言うだけのもんですからね。どうでしょうあいつだけを、下船させることにして、あとはチビチビやったら……でないと横浜正月がフイになりますよ」
 チーフメーツもボーレンを探っていたのだ!
 「そうだなあ! 僕も、浜で正月をしたいと思ってるんだが、それさえなけりゃ、十日や二十日|錨《いかり》を入れたってかまやしないんだけどなあ、じゃあ、応急手当として、ストキだけ下船さすか」船長も賛成した。
 「それがいいと、思うんですがね。ただ、その方法です。どういうふうにしたらいいか、皆の前でやるか、それとも一人だけ呼んでやるかですがね。で、もし、水夫ら全体があいつについて行くというような時には、二十か三十やって追っぱらうよりほかに、仕方がないと思うんですよ」チーフは何でもいいから、彼が、この船から「消えてなくなれ」ばいいと思うのであった。
 「そう! 何にしても、この際時間を争うんだからね。どんないい方法も遅れちゃいけないんだから。じゃ、ストキのやつに下船を命じよう」船長は言った。「だが、一体、やつらは何という不都合なやつらだろうな。これが横浜だったらなあ」
 船長は、横浜でないことを、返すがえすもくやしがった。やつらを「殺しても、あき足らないほどなのに、場合によっては、下船どころか金まで出すとは!」全く、彼のくやしがるのは理由《わけ》があった。
 「何にしても時が、悪いもんですからなあ。ところで、ストキが、海事局にボーイ長の雇い入れ未済のことと、負傷のこととを申告しやしないかと思うんですがね。そいつをやられると、どうもおもしろくないから、なるべくうまく、ごまかす必要があると思いますね」チーフメーツは、外に出ようとしながら言った。
 「だが、全く、癪《しゃく》にさわるじゃないか、停止も食わせないなんて、監獄にでもほうり込んで、やりたいくらいだ。治警に立派に、引っかかってるんだからね。畜生め?」
 それは、船長が憤《おこ》るのは、いうまでもない「ごもっとも」な話だ。
 二人は、まだ何かこそこそと話した。一々そんな話を書くのは、面倒臭くて堪《た》えられない話だ。先へ進もう。急げ、急げ。

     四五

 船長と、チーフメーツとはサロンへと出て行った。
 ところが、これはどうだ。サロンの入り口へ火夫たちがまっ黒に集まって、中をのぞき込んでいるのだ。口笛を鳴らす者があった。足踏みをするものがあった。
 船長とチーフメーツとがサロンへはいると、彼らは、水夫たちへの激励から、船長、チーフメーツへの示威運動へと移った。
 口笛が盛んに鳴った。足踏みが拍子《ひょうし》をとって、踏み鳴らされた。
 「何だ! そんなとこから、のぞき込みやがって、あっちへ行け?」船長は怒鳴りつけた。
 「何言ってやがるんだい(以下六字不明)!」だれかが後ろから叫んだ。
 これは早く、片をつける必要があると考えた。[#「。」は筑摩版では「、」]船長は、入り口の方へ、その「物すごい」目を一|閃《せん》放っておいて、椅子《いす》へ腰をおろした。
 「どうだろう。これは即答もできないから、横浜へつくまで保留したら」彼は切り出した。
 「船長、それはいけません。私たちは、これが室蘭だから、要求として成立することを知ってるのです。横浜まで行けば、産業予備軍が捨てるほどおります。私たちは、ここで要求が容《い》れられ[#「容《い》れられ」は底本では「容《い》られ」]なければ、労働をしません。それから、これはどうお考えになってもご随意ですが、私一人を馘首《かくしゅ》したにしても片はつきません、と言うことを申し上げときます。私たちは、何の相談もしないのに、機関部の方でもあんなに、動揺してるじゃありませんか。この要求は恥ずかしいほど、妥協的なおずおずした時代遅れの、要求ですよ。これが容れられないということになれば、『お前たち奴隷は、おれたちの(もの)だ』ということになりますよ。
 あなたたちが、一か月の俸給だけで四百円――彼はこれを聞くのに苦心したのだ――取って、戦時利益特別賞与が年四十五か月分ある。この現在、私たちが、月給十三円から十八円で、命をかけて労働するということは、私たちは、あまりいいこととは考えられません。あなた方は、自分の懐中の裕福なので、夢中になっていられる間に、私たちは俸給の三倍もの率で、物価が上がってるので、非常な減給を受けた形になっているのです。おまけに、労働時間は、船が忙しいと同じ比例で、私たちをかり立てています。一日に十四時間は、まるで、懲役囚よりも長時間です。その上公休日なしです。けがはしっ放し、死に放題、しけだろうが、夜中だろうが、おれは宅へ帰るからサンパンを押せ、お前たちは夜明け前に帰れ! これが私たちなんです。どうですか、聞いていて恥ずかしくなるような労働条件ではありませんか、実際、監獄だってこ
前へ 次へ
全35ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング