大工はフォックスル(おもての甲板)へ上がって揚錨機《キャプスタン》をゴットンゴットンと調節したり、油を差したりしていた。
ボースンはチーフメーツの室で、おそろしくきまりの悪い思いをしながらまだ、そこに突っ立っていた。
「どうしたんだい。ボースン、お前はこれを知らなかったのかい」チーフメーツはその机の上の要求書を指さしてきいた。
「早いことをやるものです。私はまるで存じませんでした」ボースンはよみがえったように答えた。彼はもう先刻から、何でもいいから一言口がききたくてたまらなかったのだ。
「すこしも知らないじゃ困るじゃないか、お前に責任があるんだぜ。一体どうするつもりなんだ。それに今日《きょう》出帆が遅れでもすると正月には横浜へ帰れやしないぜ。そんなことにでもなって見ろ、船長は、一人《ひとり》残らず下船を命じかねないから、お前はどうするつもりかい」チーフメーツはボースンから切りくずして行こうととっさに考えついた。
「私は……、困りましたなあ、ボイラーを揚げる時もようやくなだめて仕事をさせたのですけれどもなあ、とにかく全く私もぬかっていたのですから、おもてへ行ってできるだけ仕事するように話して見ます……」彼は確信でもあるもののようにあわててそこを立ち去ろうとした。
四三
船長は帰って来た。
ボースンは、水夫たちへ「無分別」をしないように頼みに行こうとしているところへボーイはチーフメートの室へ現われた。
「チーフメートさん、スタンバイだそうです。船長は今ブリッジに上がられました」
そのままボーイは去ってしまった。
何と言うこったろう。「始末がつかない」ボースンも、チーフメーツもこれからなぐり合いでもしそうな格好で、二人《ふたり》向き合ってそこに突っ立っていた。
「とにかく、お前はおもてへ行ってスタンバイしてくれ、何とでもごまかして水夫らを働かしてくれ! 僕もすぐ行くから」チーフメーツはようやくそういうと、急いで帽子をとった。
ボースンは追っかけられた猫《ねこ》のように、おもてへ飛んで行った。
チーフメーツはブリッジへ駆け上がった。右の手には要求書を引っつかんでいた。
船長はスタンバイをかけたのに、チーフメーツがフォックスルに現われないので、彼女との別れ前からそのまま保っていた幸福感が、爆発しかけていたところであった。彼はチーフメーツが上がって来たのでチョッとニッコリした。
「どうも、サア、スタートしよう」船長はいった。そうして息を切らしながら彼の前に突っ立っている、チーフがただじゃないのを見てとった。そしてその紙っきれへ目をつけた。
「水夫めらが要求書を出しているのです。舵夫《だふ》まで二人はいっているのです」チーフメーツはようやくこれだけをいうことができた。彼は要求書を船長の前へ差し出した。
水夫の出入り口では、三尺幅の出入り口へ、一尺幅のベンチを抱《かか》え出して、藤原が出入り口へ最も近く、波田、小倉、西沢、と腰をおろして、顕微鏡的なピケッティングラインを張っていた。藤原は船長とチーフメーツとが要求書のことを話しているのを、おもての出入り口からながめていた。
船長はチーフメーツの要求書を見ようともしなかった。そんなものはチーフメーツが、引き破いてしまえばそれで円満解決が、船長に言わせるとつくのであった。それだのに、チーフは、そんなくだらないことまでもおれに持ち込んで来るのであった。
「そんなものは、引き裂いちまいたまえ! そんなもの、大体君がビクビクしてるからいけないんだ! 万事は横浜へ帰ってから聞いてやるとそう言いたまえ」船長はまるでチーフメーツが指尺《さしがね》ででもあるように頭から足までを計った。
「私もやって見たんです。ところが、それが容《い》れられるまでは絶対に働かないというのです。来年の春になっても働きゃしないとこうなんです。そしてそれは船長が決定権を持ってるんだから、あなたは船長へ渡してさえくれればいいんだ――と言うんです。私はどうせあとでわかることだからと思って取っといたのです」チーフメーツも、船長からガミガミやられると「何だこの野郎、おれだってあと一年で船長の免状がとれるんだぞっ」と思わざるを得ないのであった。「団扇《うちわ》見たいなボート見たいなチョコマン舟の船長で威張ってやがら。へん、ボースンといった方がよく似合うよ」と憤慨するのであった。が、それは思うだけのもので、何ともしかたがなかった。
「どんな寝言が書いてあるんだか見せたまえ」船長は要求書を取った。
「そら、やつは受け取ったぞ!」藤原が低い力のある声で言った。
「フン、フン」船長は軽蔑《けいべつ》しきった心持ちを鼻から吹き出した。が、第六の条項、深夜サンパンを船長の「私用」では漕《こ》がない、と言う点に至っては彼は鼻を鳴らすことをやめた。これは彼自身に関することであった。由々《ゆゆ》しい大事であった。
「セーラーを呼べ!」船長は無視するわけには行かなかった。無視すれば船も動かないだろうし、横浜で正月もできないし、それに、彼のサンパンに対して、文句をつけるとは全く、けしからぬのであった。
船長は、スタンバイの命令を出しっ放して、サロンへはいって、そこで、水夫らを「とっちめ」てやろうと待ち構えた。船員手帳は、チーフメーツに持って来さして、テーブルの上へ積み上げた。
かわいそうに、ボースンと大工は、フォックスルで鼻水を凍らせていた。
機関長はエンジンへはいって、ハンドルへ、手をかけて待っていた。
蒸気は、どんどん上がって来た。セーフチィヴァイヴァルヴが、吹きそうになって来た。サロンのテーブルにはメーツが船長の両側に並んだ。チーフ、セコンド、サードと。
ボーイはおもてへ飛んで行った。
「セーラー全部、ボースン、大工、コーターマスター、みな、残らず、サロンまで来てくれと、船長が言ってるよ。大至急!」煙のように、彼は、また、飛んで去った。
そこで水夫らは出かけた。
「やつは、高圧的に出るつもりだな」藤原は思った。波田、小倉、西沢、各《おのおの》は、別様の戦闘意志を持っていた。
ボースン、大工も青くなって来た。
この時、ファヤマンの方でも小倉が、持って行って見せた要求条件が、問題になって、主戦論と非戦論との猛烈な論戦が行なわれていた。だが、全体として階級闘争ということは、ハッキリ頭にはいっていなかった。従って、それは適当ではある、けれども、まだ直接の刺激、衝動が来ない、というような「感じ」が、彼らを、水夫らと共に立たせることを妨げた。しかし、彼らは、立たないにしても動揺はしていた。それは、立つまいものでもない気配に見えた。
彼らの出入り口の前を水夫らが通る時に、彼らは、喊声《かんせい》をあげた。
それは、サロンまで響き渡った。
これらのことは、万寿丸ができて、海に泛《うか》んでから初めてのことであった。
水夫たちは、笑《え》みを浮かべて、火夫たちに挨拶《あいさつ》しながら通った。それは、まるで、目をさました獅子《しし》の第一声のようでもあった。
何となく、いつもと違っていた。スタンバイがかかったのに、船体はピク[#「ピク」は筑摩版では「ビク」]ともしない。罐《かん》前の火夫や石炭庫のコロッパスは、デッキまで孑孑《ぼうふら》のように、その頭を上げに来た。
オイルマンは機関室からのぞいた。
サロンでは、交渉が開始された。もっとも、船長は、一撃の下《もと》にやっつけるはずであって、交渉などをする気はテンデなかったのだ。ところが、どうしたはずみかいつのまにか、交渉の状態にはいった――のであった。
四四
「これは、だれが、書いたんだ! これは! この要求書は?」船長は、その一声をこの文句によって切って離した。
「私が、書きました」舵手《だしゅ》の小倉が答えた。
「お前が?」船長は、その回転|椅子《いす》から、無意識に腰を浮かしたほど驚いた。小倉は、コーターマスターの中で、彼の一番愛していた従順な青年であり、頭脳もよく仕事もできる、その上|風采《ふうさい》のいい、サッパリした男だった。
「だれかが、お前に、それを書かしたんだろう。お前が自分で、こんなものを書くと言うわけがない、だれだ、この文章を作ったのは」彼はストキをにらんだ。
「私が、作ったのです」ストキが今度は答えた。
「そうだろう。お前だと思った。大体貴様は、横着だからな。貴様が、小倉や皆をおだててこんなものを出さしたんだろう」彼は裁判官のごとくに訊問《じんもん》した。
「そんなことは、きわめて枝葉の問題と思います。私たちは、食うために船乗りになっているのです。であるのに、船の仕事のために負傷しても、手当をしてもらえないということになれば、私たちは、命をすててかかったも同然です。もっとも、船では命をすててかかってることは、当然だといえば当然ですがね。しかし、ただ、私たちだけが、命を安売りするということは、私たちにも、承知ができないことです」
藤原は、最初の探照弾を打《ぶ》っ放した。
「それじゃ、勝手に下船して行ったらどうだったい。だれが、いつお前に、どうぞ、下船しないで乗ってくださいと頼んだ! 頼んだのはどっちだったか、よく考えて見ろ」
船長が言った。
「私たちは、どこへ行っても、いいところはないのです。だから、自分の『今』の生活を、よりよくする方法をとるよりほかはないのです。この船ばかりへ日が照らないと言って、下船したところで、他の船でも、陸でも同じことです。だから、自分の今いるところで、より良い条件の下《もと》に、生活しようとするだけなんです」静かに彼は答えた。
「私たちは、どこへ行ったっていいところはないのです? え、それは、一体、だれの責任だ。おれの責任だとお前は言いたいんだろう。おれは、今も言ったじゃないか、だれが、頼んで乗ってくれといったと。それに『よりいい条件』の生活がしたかったら、なぜもっと、勉強して上の方へ、昇《のぼ》るようにしないんだ。自業自得を、人の責任におっつけるのは、図々《ずうずう》しすぎるぜ」船長は、こいつ一つ脂《あぶら》をすっかりしぼりぬいてやろうと考えた。そして、それからつっ放す! と。
「ご忠告は、ありがとうございますが、勉強して上へ上がって行く人間があまり多くなると、セーラーなんぞするものが、なくなるだろうと思いまして」彼は危うく笑おうとするところであったが、それだけは取りとめた。
「ばか! お前は、おれを愚弄《ぐろう》してるつもりか! ばか! が、いくら勉強してもばかはばかなんだ。セーラーより上にはなれないんだ。だから、実力さえあったら人に遠慮などせずに、サッサと船長にでも機関長にでもなったらいいじゃないか」
船長は、だんだんストキの話の相手になってしまった。
「私たちは勉強しても、船長はおろかボースンにも、なれないだろうと思っているのです。ですから、なおさら、私たちは、今のままで、幾分でもいい条件の下《もと》で労働したいと思うのです。私たちには、決して、船主になったり船長になって、富《とみ》や、権利を、得ようという考えなんぞはないのです。私たちは、普通の労働者として、普通の人間としての、生活を要求するのです。人間として、船長は労働者よりもより特別なものだとは、われわれは考えません。われわれは、今では、階級と称せられているものは、一つの仕事の分担に、過ぎないものだと思っています。それだのに、今では、ある仕事を分担すると、同時に、人間を冒涜《ぼうとく》するようにさえなります。人間が、人間を虐《しいた》げ、踏みつけ、搾取することを、えらくなると考えることは、半世紀ばかり前の考えだと、私たちは思っています。私たちは、人類の生活の一部分の貴《たっと》い分担者として、自分を見ているのです。だが、あなた方は、私たちを資本家と思っている」ストキは、その話にだんだん熱と真摯《しんし》とを加えた。
「資本家と思っている。お前らをか? ハッ
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