りあったそうだが、仁威丸《じんいまる》に、便《びん》を借りて浜へ帰ったそうだ。室蘭なんぞじゃ雇い入れする船はないそうだ」小倉が言った。「だから、たとい四人でも五人でも、時機さえしっかりつかまえれば勝てると思うよ」
「だから、その要求条件を、ここで作ろうじゃないか」西沢が言った。
「それは、藤原君に草案が一任してあるから、それでもって作って行こうじゃないか」波田が言った。
そこで、藤原の原案によって、新しい要求条件が、巻き重ねられたロープの上で、その夜十一時ごろまでかかって作り上げられた。
それは、
[#ここから字下げ(「漢数字+読点」ではじまる文頭は2字下げ、それ以外は3字下げ)]
一、労働時間を八時間とすること。(現在十二時間以上無制限)
八時間以上は、必要なる場合労働するも一時間に付き、正規労働時間の倍額の賃銀を支給すること。
二、労働賃銀増額、――水火夫、舵手《だしゅ》、大工ら下級船員全体に対して、月支給額の二割を左の方法によって増給すること。
方法、下級(下級とは何だ!)船員全体の月収高の総計の二割を、下級船員の人頭数に平均に配分し、これを在来の賃銀に付加すること。
三、日曜日公休を励行すること。
四、公休日に出入港したる時は、その翌日を休日とすること。
五、作業命令は一人より発し、幾人ものメーツより同時に幾つも発せられぬようにすること。
六、横浜着港の際深夜、船長私用にてサンパンをもって、水夫を使用して、上陸することに対して、吾人《ごじん》これを拒絶すること。
七、公傷、公病に対しては、全治まで本船において、実費全部を負担し、月給をも支払うこと。
[#ここで字下げ終わり]
以 上[#「以 上」は36字下げ]
というようなものであった。それは、小倉が、舵手室へ帰って清書して、波田に手渡しする。交渉の順序は、明早朝、出帆準備にとりかかる前に、チーフメーツに手交して、われわれは全部の要求が承諾されるまでは船室から出ない――ということに決定した。
要求条件は、労働時間と、労銀増額と、公傷病手当の三つは完全に利害をファヤマンの方と一致した。そして、その三つは、要求条項中重要なものであった。「だから、われわれは、この要求をファヤマンの方へ無断でやるというわけには行かないだろう」「もちろん」
そこで、小倉がファヤマン(火夫)コロッパス(石炭運び)に報告し、藤原がオイルマン(油差し)に、水夫たちはこういう要求条件を出して戦う、戦線を共同してもらえれば、この上もない事だが、そうでなかったら応援をしてもらいたいと、いうことを申し込むことになった。しかし、それは、われわれの要求条件がチーフメーツの方へ持って行かれると、同時でなければなるまい。なぜかならば、それは、セーラーの方で計画実行しなければならなかったほど、セーラーによっては、緊密な要求だが、火夫の方では、ある者にとっては、そうでないかもしれないし、より一層われわれがおそれるのは、スパイだ。スパイに対しては、われわれは絶対に、気をつけねばならない。それはペストのバクテリヤよりもこわいんだから。スパイはいつでもいそうなところにいないことは、柳の下の鰌《どじょう》と同じことだから、なおさら、われわれは細心に注意しなければなるまい。だから、少し手おくれのようには思われるかもしれないが、明日《あす》の朝にした方が、よくはないか、それはどうしても、明日の朝でなければならない――という事も決定した。
そして、今一つ重大なことが、決定された。それは、この要求提出を機会として、それが成功しようが失敗しようが、とにかく、要求を出したということにだけは、成功したわけなんだから、その記念として、われわれは海員組合――それがないならば作ろうし――へ加盟しようではないか。確か、それはごく最近生まれたように、おぼろげながら聞いた。それは、浜に帰った上で、早速《さっそく》調査して組合があれば、直ちに入会に決することになった。
公傷病手当の規約については、直ちに実行するのは、もちろんであるが、ボーイ長の手当は、その新しく決定された規約によってなすこと、を忘れないように交渉すること、これも、その通りに決定した。
彼らが、こうして、彼らの必要なる要求をするのに、何か、不都合ななすべからざる行為を企てでもしているように、彼ら、自身がまず、これを秘密にし、それが、ならない時は――という善後策をも考えねばならなかったことは、何を意味しているか。
それが、何を意味していようが、私の知ったことじゃない。ただ、私は、彼らが、人間としてあたり前のことを最小限度に要求する時に当たって、いつでも、その企ては、慎重に秘密にされる習慣を知っている。だれでも、地獄に落ちたくはないのだ。だれが、人間をこんなに、コソコソするように仕込んでしまったのか。
ちょうどこの時、船長は、そのマストがきれいになり、サイドが化粧し、うまい具合に満船したという報知を、チーフメーツから受け取って、彼女と、酒を飲んでいた。彼女は、「これが、この年のお別れで、来年は、また、すぐ会えるのね」と言ったふうな意味のことを言った。
「おれは、お前の美しいのが好きだけれど、そこがまた、おれを心配させもするんだよ」と、彼は杯をなめた。それは登別の温泉宿の一室で、燃えるような、緋《ひ》の布団《ふとん》のかかった炬燵《こたつ》の中であった。
ボーイ長は、その時、鉄のサイドが、同時に彼のベッドの一方である、その寝箱の中で、海のものとも山のものともつかない傷と、病《やまい》とのためにうなっていた。
水夫らは、彼らを、あまりしっかり締めすぎる鎖を、少しゆるくするように、要求する相談の最中であった。
三田子爵《みたししゃく》は、この汽船会社と、その炭坑との社長だった。彼はその時、何をしていたか、雲の上に隠れてしまって見えなかった。
四二
夜が明けた。風がヒューヒューうなっていた。灰色の空は、どこからともなく、山となく平原となく水平線となく、とけ合ってしまっていた。その間を粉のような灰色の雪が横っ飛びにケシ飛んでいた。だが、大した雪ではなかった。目も、鼻も、あけられないと言う、あの特徴的のやつではなかった。風は、大黒島を代われば必ず、前航海ほどには吹いているだろうとは想像された。
ハッチは、まだその口をあけたままであった。それは粟《あわ》おこしを食った子供の口の辺に似ていた。デッキじゅうは石炭だらけであった。その各片はデッキの鋳瘤《いこぶ》のように、デッキへ堅く凍りついていた。
ボースンはチーフメーツのところへ、その作業の順序を聞きに行った。すぐそのあとからストキ藤原が、清書された要求書を持って続いて行った。小倉は、起きると共に火夫室へ行った。
水夫らは、それはいつもの朝とは何だか大変違った朝のような気がした。全く実際違った朝ではなかっただろうか。
ボースンは、チーフメーツの室にはいった。そして彼はあとを締めようとすると、もうストキがすっかりそのからだを入れていた。そして扉《ドア》はあとからストキによって締められた。
「お早うございます」とボースンはいった。
「うんすぐ……」チーフメートが仕事の命令を発しようとすると、ストキはすぐに、チーフメートの机の上に、その要求条件を載せた。
「水夫一同は、その要求書どおり要求しますから、要求を容《い》れてください。そしてその要求書に判をおしてください。つまりそれが要求承認の意味になるのです」
ボースンはそこへ凍りついた棒のように立っていた。
チーフメーツは、暗礁《あんしょう》に乗り上げたよりももっともっと驚いた。
それはありうることではなかった。暗礁はありうるが、水夫らが要求書を出すなんてことが! 彼は憤《おこ》ってしまった。
「何だ、要求だ! どんな要求だ! 乗船停止の要求か!」チーフメーツは怒鳴った。
ボースンは縮み上がった。彼は、私は知りませんと言いたかったが、――そこにストキが立っているではないか――ああ、困った。彼は字義どおり立ち往生した。
ストキは平気だった、「初めやがった」と彼は思っていた。
「そこに書かれてある通りの要求です。ご質問があればお答えいたします」
ストキは「癪《しゃく》にさわる」ほど落ちついていた。
「どんな要求でも今はいけない。横浜へ帰ってからだ!」チーフメーツは、事態が自分の考えてるように簡単でもなく、また予想どおりにも行かないだろうということをさとった。
「私たちは、室蘭で片がつかなければ働かないだろうと思います。この要求はほとんど海事法に定められてある最小範囲から、きわめてわずか出ているか、いないくらいのものだし、その他の問題も普通の問題です。今ごろ要求するのは、われわれの迂愚《うぐ》であり、同時に万寿丸の恥辱でしょう。しかし、それは、われわれにとっては、全く切実な問題なのです。これは、あなた方にとって全く一顧の価値もない、軽易な問題でしょう。それがわれわれには重大な問題なのです。これをごらんの上承諾してくださるように希望します」
ストキはまるで小学校の生徒が読まされる時のように、「まじめ」くさってそう言った。
ボースンはもじもじしていた。逃げるにも逃げられないわけであった――
「とにかく、おれには何とも返事ができない。船長が帰ってから、船長と相談して返答する。だが、ストキ、こんなこたあよした方がいいぜ、これはお前のためにおれは言うがなあ、もうお前も三十三なんだから、考えてもいい年じゃないか、これや全くよした方がいいぜ、船長がウンというはずがないと思うぜ。そうすれや、お前たちゃ一年か三年ぐらいの停船命令は食わにゃなるまいぜ、え、どうだ、おもてへかえって、水夫らに思いかえすようにすすめたら」
チーフメーツは、そのコースを転換した。
「私はそういうわけには行きません。ひっ込められるような、どうでもいいような要求を私たちは出しはしません。それはわれわれの生命や生活にとって切実な事柄ばかりなんですから。冗談や退屈しのぎ半分でこんなことをしはしません。私たちは乗船停止なんてことを今ごろ恐れているようでは、こんな要求ができないことを知っています。要するに、私たちは、この要求が、容《い》れられなければ、私たちとしては、どんな仕事にもつかないという申し合わせがしてありますから。私はただ、使いとしてこの要求書の提出とその説明とを引き受けて来たのです」ストキはチーフメーツの戦術にはつり込まれなかった。
「それじゃどうしてもきかんというのなら、船長におれから渡すまでだ。だが、それは承認されないよ、そしておれの顔も踏みつぶすつもりなんだな」チーフメーツは自分の手で納めたかった。
「そうです! 船長に渡してください。それから、あなたの顔をつぶすとかつぶさないとか言うのは、おかしいと思います。そんなことはどうだっていいようなものだけれど、誤解があるといけないからいっときますが、この要求書は最初あなたに出したんですよ。そうするとあなたはおれでは決められんから船長へといわれるのでしょう。で船長へ渡すことを頼めば『おれの顔をつぶす』といわれるのですね」
「そうではないか、おれの言うことを聞かんじゃないか」チーフメーツは一つグッと押した。
「それではあなたは、私たちの要求書の決定権を持たないというときながら、握りつぶす権利を持ってることになりはしませんか、握りつぶすことは否定することじゃありませんか、否定する権利だけ持っていて肯定する権利を持たないと言うことは、このごろの流行にしても、理屈には合わないじゃありませんか。だから、あなたに対して、今ではわれわれは何らの要求もしません。ただ取り次いでいただけばいいのです」ストキはやっぱりまじめに、急がず、何か相談でもしてるような調子で話した。
それは全くチーフメーツの顔をつぶしてしまった。彼はうんともすんともいわなかった。
「船長が帰ったら渡すよ」
「どうぞ願います」ストキはいった。
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