、日本の資本主達が富んだのは! 労働者はその代わり過度労働ですっかり、からだをブチこわしてしまった!
夕食は船ではとっくに済んだのに、昼ごろふさがってしまったハッチ口はまだ開かなかった。デッキの下では、――テーブルの下あたりでも、ボーイ長の寝箱の下あたりでも、あちこちで、ゴトゴトと、異様な響きが絶えず続いた。そして時々うなるような人声が聞こえた。そして、それらも七時を過ぎると、ようやく穴があいた。それは難治の腫《は》れ物が口を開いて膿《うみ》を出し切ったのと同じ喜びを人足たちに与えた。山の絶頂へでも登りついた人のように、彼らはショベルを杖《つえ》にして石炭を踏みしめて上《のぼ》って来た。
そして、その例外に太い握り飯にありつくのであった。
彼らはこうして、ダンブルの中で土蜂《どばち》のような作業に従って、窒息しそうな苦痛をなめている時に、その境涯をうらやんでいるものさえあった。
それは高架桟橋上の労働者であった。それは船のマストと高さを競うほども高いのであるから、その風当たりのよいことは、送風機のパイプの中のようであった。
彼らは、石炭車の底部にある蓋《ふた》をとる。石炭は桟橋へ作られた漏斗《じょうご》の上へ落ちる。そして、船のダンブルへドドッと雪崩《なだ》れ込むのである。彼らが労働する部分は皆鉄ででき上がっている。そして、その鉄は焼き鏝《ごて》のように、それに触れると肉を引んむいてしまう。彼らは帆布で作った大きな袋を足に「着て」いる。彼らはまた毛布と毛布との間に、綿や毛などを詰めた赤や灰色の仕事着を着ている。それは、彼らが、その目の回るような、過激な労働時間以外に着ている、唯一の防寒具である。彼らは、また、皆、鎮西八郎為朝《ちんぜいはちろうためとも》が、はめていただろうと思われるような、弓の手袋に似た革《かわ》手袋の中で、その手を泳がせている。
北海道の寒風がりんごの皮を緻密《ちみつ》にし、その皮膚を赤く染めたように人足らも、その着物を厚くし、その頬《ほほ》を酒飲みの鼻の頭のようにしている。
だが高速度鋼のカッターは、鋳物を、ナイフで大根でも削るように削る。と同様に北海道の寒風は、労働者たちから、その体温をどんどん奪ってしまう。桟橋の上で働いていることは、焔《ほのお》の中へ氷を置くのと反対な、しかし似合った作用をする。
彼らは、その労働を終えた時、帰って行く、空《から》荷車の上へよじ登るのが困難なくらいに、からだが硬《かた》くなっているのだ。彼らの一人《ひとり》は言っていた。
「まあ、生きながら凍ったようなものずら」と。
しかし、労働者は、生きて行くためには死をおそれてはならなかった。
四〇
藤原は、自分の寝箱の中で、腹ばいになって、紙きれに何か書いていた。それは、何か本の抜き書きでもするように、そばには二、三冊書物が置いてあった。彼は、煙草《たばこ》をふかしていた。二本一緒にくわえたらいいだろうと思われるほどむやみにスパスパとふかしていた。彼一人でおもてを燻《くす》べ上げるに充分であった。
ダンブルには、ほとんど石炭が一杯に詰まった。本船は、予定どおり、明朝出帆して、横浜へ帰って正月を迎えることができそうであった。横浜で正月を迎えることは、すべての船員の希望であった。「室蘭《むろらん》ではしようがない」のであった。
横浜には船長も、機関長も、だれも彼もが、世帯を持っていた。その自分の世帯で、お正月を迎えたいということは人情として当然であった。万寿丸は、三十一日の午前十時ごろか、もっとおくれて横浜へ帰りつける予定であった。従って、その予定は、一時間も延長しうるものでなかった。
明朝一番で船長は登別《のぼりべつ》の温泉から、その愛人と別れて、一番の列車で室蘭へ帰って来るはずであった。
船長が、船へ上がり切ると同時に、ブリッジには、彼の姿が現われるだろう。そこで、彼は「ヒーボイ」と、錨《いかり》を巻くことを号令するであろう。
それまでは、今までとすこしも変わらないだろう。だが、それからが変わるだろう。彼らは「横浜正月」が、すでに実現されうるものと信じていた。その安心を、はなはだしく揺り動かされ、のみならず、その他のことも一切が、まるで、プログラムと違った方向に脱線して、坐礁《ざしょう》したということを、さとらねばならないだろう。
そして、それらの原因は、水夫らが、要求条件を提出して、目下交渉中であるから、彼らは、働いていないのだ。それで、船が動かないのだ! ということが、船内一般に知られるだろう。われわれの要求条件は、エンジンの労働者によっても、吟味せられるだろう。この要求条項は、彼らにも、何らかの衝動を与えるだろう。そして、そのために、この要求条件は、よく考えて、作られなければならない!
藤原は、煙草の煙の間から、こんなことを考えていた。
彼は、その紙っきれをながめた。それには、要求条件の原案らしい文句が、書かれてあった。労働時間の制定、労銀増額、公休日、出帆、入港は翌日休業、公傷、公病手当の規定及び励行、深夜サンパン不可、などが乱雑に書かれてあった。
彼は今、それらの条項に、要求書としての形を与えるために、苦しんでいるのであった。「チェッ!」藤原は舌打ちをした。そして、煙草の灰を本の表紙の上に、やけに払い落とした。「こんなことを今さら、要求しなければならないなんて」
彼は、その紙きれをポケットに入れて、寝箱からおりた。そして、波田へたずねた、「小倉君の方は、どうなったんだろう」
「さあ、それを、まだ何とも聞かないんだがね」波田も、心配しているのであった。
「小倉は、当番《ウアッチ》かい、今?」
「どうだか」波田は、出入り口まで行ってブリッジを見た。
小倉は、ブリッジを、アチコチ歩きまわっていた。
「いるよ、海図室《チャートルーム》で、相談しようじゃないか」波田は、ストキに耳打ちをした。ストキはうなずいた。
「じゃ僕が、都合はどうだか、きいて来るから、君は、エンジンの上で、待っててくれたまえ」
波田は、そのまま、気軽に飛び出して行った。藤原は、一度奥まではいって、そこで、ベンチに腰をおろした。そして、煙草へ火をつけた。しばらくすると、フト何か、忘れものでも考えついたように、立ち上がって、デッキの方へ出て行った。
幸いに、メーツらは、明朝出帆の名残《なごり》を惜しむために、皆、どこかへ行ってしまっていた。
三人は、チャートルームへ集まった。
「西沢君に来て、もらわなきゃ」小倉が言った。
「今、女郎買いの話で、おもてを持てさせてるから、目立ったらいかんだろう、と思うんだがね」藤原が答えた。
「あいつあ、全く、しようがないよ。女郎買いの話となったら、まるで、夢中になっちまやがるんだからね、も少しまじめな時は、まじめに、やってくれなくちゃ、困るんだけどなあ」波田は、くやしがった。
「しかし、中には、中にはじゃないや、ほとんどだれもが、それ以外に何もないのに、それ以外のものを、あの男は持ってるだけ、いいじゃないか、味方に対しては、われわれは、徹底的に寛容な、態度を取らなきゃならないよ。そうしないと、味方の戦線から、自然に壊滅しちまうからね」藤原はなだめた。
「で、コーターマスターの方はどうだろう。まだ、話してもらえなかったかしら」藤原は、小倉にきいた。
「まだ、話さないんだよ。どこから切り出していいんだか、話が、すっかり、打《ぶ》ちまけられないので困っちゃったんだよ。だからね、要求書を出す間ぎわになって、それを見せて意見を聞いたら。そしてもし、コーターマスターとしての、提出要求でもあるということなら、それを追加して、提出するということにしたら」小倉は答えた。
「そうだね。その方がいいだろうね」藤原は賛成した。「その方が、秘密を保つ上にも、かえっていいだろうよ」波田も賛成であった。
「じゃあ、僕は、西沢君を連れて来よう。そして決めちまわなきゃ、明日《あす》のことになるのじゃないかい」波田は、何だか追っ立てられるように、心が急がしいのであった。
「ちょっと」と小倉は手で制した。「僕は、もう十五分で非番だから、非番になったら、ともの倉庫で寄り合ったらどうだろう」時計は、八時前十五分[#「八時前十五分」は底本では「八時十五分」と誤記]をさしていた。
「そう、そうしよう。一人ずつ、チョッと上陸すると、いった格好をして、出ればいいからなあ」
「じゃあ、そうしよう」そこで、二人《ふたり》のセーラーは下へ降りた。
おもてへ帰った波田は、西沢に、八時の鐘がなったら、ともの倉庫で、相談があるから、わからないように抜けて来て、くれるようにといった。西沢はうなずいた。
ストキは、ベンチへ聴衆の一人と、いったような顔つきで腰をおろして、例によって、煙草をふかし続けた。
四一
八時が鳴った。その時には、もう藤原はいなかった。波田は、ボーイ長のそばに、腰をおろして話していた。「じゃ、正月までの菓子を、食いためて来るからね。おみやげを忘れやしないから、待っていたまえよ、え、相変わらず、東洋軒さ、ハハハハハ」と、波田は、ともの倉庫を東洋軒にしてしまった。
「え」西沢は頓狂《とんきょう》な声を出した。「波田君! 僕も、たまにゃ連れて行けよ」そこで、二人は、連れ立って、倉庫へやって来た。
藤原は、目玉ランプを抱《かか》えて、綱敷き天神みたいに、ホーサーの、巻き重ねてある上にすわっていた。やがて小倉もやって来た。
それで、一切は動員された――というわけであった。
「そこで、僕らは、いつ浪《なみ》にさらわれるか、ウインチでやられるか、どこで、やられるかわからない危険な労働をしているのに、ボーイ長のように、負傷はさせっ放し、死ねば死にっ放し、というような状態では、とても不安心で、落ちついていられないんだ。それで、僕は、公務疾病、傷害手当規約を本船に作って、それでもって、扶助すべきだと思う。それを諸君に、計りたいんだが。そして、ただ、そんなものを作ってもらいたいと、いうのだけでは役に立たないものを作るだろうから、こっちで二人《ふたり》、向こうで一人《ひとり》の委員を出して、その委員会によって、扶助規則を作るということにしたら、どうだろうと思うのだがね」藤原は言った。
「そりゃ、ぜひ必要なこった」西沢が言った。
「しかし、規則の点だが、委員会で、おもての意志が、はたして貫徹するだろうか、僕は、その点に疑いを持つよ」波田が言った。
「そうだ、だから、こちらから二人、向こうから一人と、いう割合にしといたんだがね」藤原が答えた。
「そりゃ、形ではそうなるけれども、実際に、その委員会は、ともの一人のために、おもての二人が支配されることに、なりはしないだろうか? もし、おもての二人が、支配されまいためには、僕は単に、その条件のみについても、一度ストライクが、起こされやしないかと思うんだよ。そうなれば、それは、二重の手間をとることになるからね」波田が言った。
「そうさなあ、それじゃ、どうすればいいんだろう」小倉が言った。
「なるほどね。こっちからの委員は、木偶《でく》の坊《ぼう》も同じだからね」藤原も賛成した。
「で、結局、どういうふうにすればいいだろう」
「僕の考えでは、こっちで作ってしまって、向こうには、ただ、それを承認するか、しないかの二つの回答のうち一つを、選ばせるだけでいいと思うんだがね。でないと、何しろ出帆前のとっさの間に、決する勝敗だから、出帆後に持ち越せば、こちらの負けになるに決まってるんだからなあ。だから一切の条件は、それを承諾するか、しないかどちらかにのみ、決定のできるように、ハッキリしたものにして置いて、そして出帆間ぎわの致命傷を突くということが、一等よかないかと思うんだがね」波田の考えはこれだった。
「そう、その方法はいいと思うね、今室蘭には、一人も、休んでるものはないそうだ。二、三日前まで休んでいた者が、二人ばか
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