ら、また、自分の分を継続しなければならなかった。船の動揺ははなはだしかったが、満船している関係上、動揺以上に浪の打ち込みがはなはだしく、そのため、水夫室の頭上では、錨《いかり》が浪と衝突して少しでもゆるみが来ると、今にもサイドを押し割りそうに、メリメリッと鳴った。
波田は、それらのことには、ほかのだれもと同じくなれ切っているので、二度目の夕食をうまく食うことができた。
彼は、腹には詰め込みながら、耳には、セーラーたちの「煙草」の話を聞いた。しけたあとでは、きっと話がしんみりするのであった。いつでもふざけるにきまっている三上《みかみ》さえも、一、二度極端な、女郎に関するその話題を提供してみたが、反響がないので、それ以外に話すことを全然持たない彼は黙りこくって、すぐにその寝床にもぐりこんで、三十分間をぐっすりと寝ることに決めたらしかった。
畳敷きにはできない形ではあるが、それをその面積に換えれば六畳ぐらいは敷けるだろうと思われる「おもて」には、上下二段にベッドを作りつけて、水夫長、大工、舵取《かじと》りを除いた、水夫五人と、おもてのコックが一人《ひとり》と、ストキとが寝るようにできていて、その中央に、テーブルと、ベンチとが作りつけてあった。で、おもてでは、一切|合切《がっさい》がギリギリ一杯であった。食卓は、用事が済むと、室のまん中に立っている柱に添うて上につり上げられるにしても、やはり一杯一杯であった。そして道具置き場は、その食卓の下をくぐって、船首のとがったところが、そうであった。
わが万寿丸ははなはだしく団扇《うちわ》に似てるという定評があってさえ、やはり船の船首の部分は、いくらかとがっていることが、これで見てもわかるのであった。
そして、窓はすべて、二重に厳密に閉ざされ、デッキへの鉄の扉《とびら》までが厳重に閉ざされたから、空気は全く動かなく通わなくなってしまった。そして、この、太鼓の内部のような船室は、皮であるべきサイドの鉄板が、波濤《はとう》にたたかれてたまらなくとどろくのであった。
その間にボーイ長は、その負傷の疼痛《とうつう》を、陸上の父と母とに訴えた。摺子木《すりこぎ》のように円《まる》い神経の持ち主であるセーラーたちも、環境がかくのごとくであるために、ひとりでにしんみりしてしまうのであった。そして、彼らは、いつでも、しんみりするのを好まなかった。それは、彼らを、この世の中で一番詰まらない役割に引っぱり込んでしまうからであった。というのは、いつでも彼らは最も詰まらない役割であるのだが、それをほんとうに彼らに手きびしくさとらせるからである。だれでも、自分が踏みつけられ、ばかにされることを喜ぶものはない。わがセーラーたちも、しんみりする時必ず、そうであることがわかるようにひとりでに考えるのであった。そして、船乗りの気質として、そんなに自分たちを「コミヤル」(余剰労働を搾取するという意が含まれている船乗り言葉)やつは容赦しないはずであるのだが、それができ得ないところに、彼らが、しんみりしたたびにしょげ込み、次いで自暴自棄になるという結果が生まれるのであった。
彼らは、自分たちが人間であることを知っていた。そして、人間らしからぬ生活に追いまくられていることを知っていた。そして、彼らはどうすれば、これらの不都合な生活から人間らしい生活へはいれるかを、絶えず考え、その機会をうかがっていた。そして彼らはその考えをまとめることも、機会を捕えることもできないで「小資本を貯《た》めるための、きわめて短い時間だけ、この危険な仕事によって金もうけをしよう」とした最初の考えは、そのまま彼らを怒濤《どとう》の上で老年にしてしまい、磨滅《まめつ》した心棒にしてしまうのであった。
その夕、ボーイ長のベッドのそばに集まった藤原、波田、小倉の三人は、皆ひどくしんみりしていた。
七
「おれたちは何だってこんなに泥棒|猫《ねこ》扱いに、いじめられるんだろうなあ」と、藤原がため息と一緒に吐き出すようにいった。一時の興奮から、夕方ボーイ長のことで来たチーフメートとの事を思い出して、きっとよからぬ予感に襲われたのだろう。
「それゃ君、泥棒猫だからさ」と小倉がひょうきんに答えた。彼は人に落胆させまいとして、いつでも骨を折る気のいい正直者であった。
「どうしてなんだろう」藤原はおとなしくきいた。
「十匹[#「十匹」は底本では「十四」と誤記]の猫の中の二匹が泥棒猫であっても、その全体が泥棒猫と思われるんだからな。まして君、十匹[#「十匹」は底本では「十四」と誤記]のうち八匹がそうだったら、もちろん泥棒猫団だろうよ」
小倉は答えた。
「それじゃ、僕らは一体、生まれつき泥棒猫だったろうかね」
「多くはそうだね。つまり僕らが泥棒猫であったにしても、それは僕らの知ったことじゃないことになるわけだ」
「というと」と藤原は小倉にききかえした。
「つまりさ。僕らは、その飼い主から見れば役に立たない泥棒猫なんだ。ね、いつ主人のもの[#「もの」に白丸傍点]をかっぱらうか油断もすきもありゃしない、とこう、見られているんだ。だから、主人の方じゃ僕らを泥棒猫扱いするんだ。扱いだけじゃないんだ、僕らを真物《ほんもの》の泥棒猫か、もっと適切にいえば、去勢した馬車馬と考えてるんだ。だから、主人、つまり、資本家からいえばさね、僕らは、彼らが僕らをしようと思うままにされていることが、唯一の方法なんだ。だから、船主が『水夫らは昼飯を食わない方が労働能率を上げるだろう』と思えば、僕らから昼飯をとり上げてしまうし、室蘭、横浜間は三日で航海すべきだから、糧食はカッキリ三日分でよろしい。難破したり、遅航したりすれば、それはやつらの例の怠惰から来たもので、おれの方の損害の方が大きいから、それ以上の積み込みは相ならぬ、ということになれば、それも正しいのだ」小倉はきわめてまじめに、説法でもするように静かにいった。
「フーン、して見ると、僕らもその考えに適応しなければならないのかい」藤原は、小倉にきいた。
「適応する必要はもちろんないさ。しかしただ適応する者のあることだけは事実なんだ。僕は資本家が自分自身の肉体の構成と、労働者の肉体構成とが、全然、異なるものであると考えているだろうと思う」
「それで、そうなら僕らはどうだってんだね」と藤原はきいた。
「それで、僕らは、僕らとしての『意識』を持つ必要が生じて来るんだ。資本家や、資本家の傀儡《かいらい》どもが、商品を濫造《らんぞう》するように、濫造した、出来合いの御用思想だけが、思想だと思うことをやめて、僕らにゃ僕らの考え方、行ない方があることをハッキリ知らなきゃならないんだ」小倉は頭の中で、辞書のページでも繰ってるようにしていった。
「どうして、それを考え、どうしてそれを知ればいいんだ」藤原は問いをやめなかった。
「それは、あまり困難な問題だ。僕はそれで悩んでるんだ」と小倉は答えた。
「小倉君『人間は万物の霊長なり』という人間の造った言葉があるだろう。そこでね。僕は、昔から、一番苦しい、貧しい、不幸な階級の中で、またことに貧しい不幸なのろわれた人々でも、万物の霊長だったんだろうか? と考えることがあるんだよ。『おれはあの犬になりたい』と奴隷《どれい》は主人の犬を見て思わなかっただろうか。『おれは燕《つばめ》になりたい』と、だれかが残虐な牢獄《ろうごく》の窓にすがって思わなかっただろうか。『おれは猿《さる》になりたい』と、詰まらぬ因襲と制度とから、切腹を命じられた武士は思わなかっただろうか。『おれは豚になりたい』と乞食《こじき》の子は思ったことはないだろうか。小倉君。僕は、行く行くはそうなることを信じているが、今では、人間は万物の霊長でもなんでもないと思ってるよ」藤原は煙草《たばこ》に火をつけた。
「それや僕もそう思うなあ。僕だって鱶《ふか》になりたい、と思ったことがあるもんなあ」と、波田は初めて、その突拍子《とっぴょうし》もない口をきった。
「人間は万物の霊長であるないにかかわらず、人間だってことは僕は信じるよ。だが、人間が万物の霊長だってことは、僕も、もっとも僕は今まで、そのことをそんなふうに問題にしたことがなかったがね、人間は、ともかく賢い動物だとは思っていたよ。賢いくせに、詰まらぬところに力こぶを入れたり、どんな劣等動物でもしないような詰まらないことを、人間の特徴と誇りながらしたりする動物だろう、人間ってものは。ハハハハハハ」これが小倉の人間観であった。
「人間が万物の霊長だなんて問題に、コビリつくことはもうよそう。が、全く人間も他の動物と同様に食うため、生殖するために、地上で蠢動《しゅんどう》してるんだね」藤原は人間であることを悲しむようにこういった。
「食うことと、生殖することだけで活動してるから、それで蠢動してるというのかい」今度は小倉が皮肉な聞き手になった。
「まあそうだね」と藤原はちょっと苦笑した。
「ところが君、ブルジョアはそれ以上の高利貸的官能のために、あるいはまた倒錯症的欲望のために、食わせないこと、と、生殖させないこととで蠢動してるんじゃないのかい」といって小倉は大声立てて笑ったが、フト気がついたように、ボーイ長の方を見やって口をつぐんだ。
「安井君、痛むだろうね」と、波田はボーイ長にきいた。
「ええ、痛くて、痛くて、他の人の痛くないのが不思議で……」と答えた。
「困ったね。航海中だから、まあ、できないだろうけれど仕方がないから、我慢するんだね。横浜へついたら病院へ入院ができるさ」と波田が慰めた。
「ところが、できないんだ。ボーイ長はまだ雇い入れがしてないんだ。これは確かに船長の失敗なんだ。この点から攻撃すれば、解雇手当や負傷手当などはもちろん、取りうると思うんだ」藤原はこういった。
「雇い入れがしてなくったって、入院はできるさ。この重傷を入院ささんてことはないさ。それに、雇い入れと、負傷とは、どんな関係がありようもないじゃないかね」波田は、藤原が入院を拒みでもするように食ってかかった。
セーラーの三上《みかみ》や西沢《にしざわ》、水夫長、大工、コックなどは、もうその寝床でグーグーいびきをかいていた。全く、何か特に興奮することでもない時は、食後は非常に眠いのであった。全く目があかないほど眠いのであった。幼子《おさなご》が夕食を食べながら居眠るように、幾日か続いた強行軍で、兵士が歩きながら眠るように、それと同じく眠いのであった。けれども、この三人は、今食後十分か二十分の熟眠どころではないのだった。今や、彼らはボーイ長が雇い入れなしに使役されていたという事実について、彼らの意見を発表し合う必要が生じたのであった。
「そんなことは、海員手帳にチャンと書いてあるこった。議論の余地なんぞありゃしないさ」と、ストキの藤原はいった。(事実それは海員手帳に記入されてあることであった。そして、いかなる場合でも船長はこれを怠ってはならないのであった。法文の上でも、実際から行ってもそれはそうでなければならず、またそうあるべきであるのだったが、さて、それがそうされなかった場合は問題はどうなるかということは、ほぼ、そうあるべき通りに、行かないのであった。要するに、理論からも、実際からも、人間は、平等に、幸福でなければ困るが、一部の人間は、平等は困る。おれたちだけのぜいたくがいいんだ。搾取の痛快味こそ生活の意義だというので、わかり切ったことがわからなくなるように、ボーイ長の場合においても、明白に、ボーイ長が有利な立場にあるにもかかわらず、その全体の利益と権利とをフイにするところの一要素である「労働者」で、ボーイ長があった。だから、これは、それほど簡単に、数学的の結果を見ることは困難であろう。その代わりに、法律的ないしは、商業会議所式の結果を見るであろう)と、三人が話し合いの末、そこまで落ち着いたのであった。
「だから、おれたちは、これに対してはたたかわなけりゃならん
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