汽笛を鳴らして通った船は、浮かべる一大不夜城の壮観を見せて、三マイルも行き過ぎているであろう。
このようにして、わが万寿丸は汽笛を鳴らして通過した。その汽笛をかすかに聞いて、今立ち上がろうとして、その凍えたからだに最後の努力ともがきとを試みている兄弟が、その船の中にいないだろうか、そのたよりない捨てられた犬の子のように哀れな形をした船の中に。
鐘が鳴った。夕食である。水夫は水夫室に、火夫は火夫室に、各《おのおの》はいって行った。
難破船は、薄やみの中に、暴《あ》れ狂う怒濤《どとう》の中に、伝奇小説の中で語られた悲しき運命の船のごとくに、とり残された。
藤原は、船尾にランプをつり上げながら、残された船を見送って、堪《た》えられない寂しさと、憤《いか》りとに心を燃やした。
「あの船には、少なくとも二十人の乗組員はあっただろう。それが養っている、同じ数くらいの家族もあっただろう。あの中で二十人は凍死したか、ボートで溺死《できし》したか、どちらにしてもあの船の乗組員が助かるということは考えられないことだ。二十人はとうとう、その家族を残して、妻子はその主人に残されて逝《い》ってしまわれたんだ。そして、その船によって、最も重大な利害を感ずるはずの船主は、今その宅で雪見酒を飲んでいるのであろう。その二十人の不払い労働から、蓄《た》めて経営している会社の株のことを、電報がはいるとすぐに気にするだろう。遺族には、香典が二十円ずつぐらいは行くであろう。そして、船主は、二十人の人間のことよりも、その沈没するのが当然なほど腐朽し切った、ぼろ船の運命に対して、高利貸式の執拗《しつよう》さでくやしがってるだろう」
「人間が生きて行くためには、どうしても人間の生命を失わねば生きて行けないのか、人柱《ひとばしら》! おれたちは皆人柱なんだ!」
五
水夫室では、水夫たちが、犬ころがうなり合いながら食べると同じように、騒ぎながら、夕飯を食っていた。
負傷したボーイ長のそばには、藤原と、波田とがいた。波田のベッドは、ボーイ長のとL字形に隣り合っているので、自分のベッドで、頭をかがめながら、うまい夕食を摂《と》った。全く、字義どおりに「のどから手が出る」ほどであった。胃の腑《ふ》へ届く食物は、そのまま直ちに消化されて、血管を少女のような元気さと華《はな》やかさとで駆け回るように感じられた。彼は飯を口一杯に頬《ほお》ばりながら、ボーイ長の足もとに波田と並んで、これを頬ばっている藤原に話しかけた。
「チーフメートは来たかい」
「まだだよ」藤原は、まるでそれが波田のせいでありでもするかのように、ふくれっ面《つら》をもって、答えた。
「随分無責任じゃないか[#「ないか」は筑摩版では「ないかい」]。三時間も打っちゃらかしとくなんて」
「距離が遠いんだよ。距離が、やつらのはね」藤原はなぞのようにいった。
「ハハハハ、なるほどね、サロンから、おもてまでじゃ三時間じゃ来られねえや」波田は、冗談だと思って笑った。
「五感と、神経中枢との距離がさ。鼻と口との距離と同じほどなんだよ」
ストキはひどく憤慨しているように見えた。「それに、こういうことになれて、無神経になるってことは、それが仲間のことであると、なおさらよくないね」
藤原は、話がむずかしいので、有名であった。彼は漢語みたいなもの――仲間の間でそういった――を使いたがる癖が骨にしみ込んでいるのであった。
まだ食事が、始められて間もなく、チーフメートは、ボーイに「救急箱」を持たせて[#「持たせて」は底本では「持せたて」と誤記]、「大急ぎ」で駆け込んで来た。
水夫たちは食事を中止した。そして、水夫見習いのベッドを、チーフメートと一緒にとり巻いた。
「ボースン! こんなに暗くちゃ何もわからんじゃないか、蝋燭《ろうそく》をつけて来い。五、六本!」と、チーフメートは一発放した。
かくて、蝋燭はつけられた。ボーイ長がそこへ寝始めてから、三時間目に初めて、彼の室は燈《ともしび》で照らされた。彼が船へ持って来たものは、そのからだと、その切り捨てられた仕事着と、初期の禿頭病《とくとうびょう》とだけであった。
彼は、陸上でひどく苦しんだ。彼の家はひどく貧乏の上に、兄弟が十一人もあった。彼は、小さい時分から、自分を養うのは自分でなければならぬことを感じさされて来たのであった。
彼は、訴えるような目つきで、また、彼のそのような負傷にもかかわらず、チーフメートに直接物を言うことを恐れて、遠慮がちに「痛あーい」とうめいた。
チーフメートは何でもかまわず、ボーイ長の左半身全体に、イヒチオールを塗りまくった。彼は一分間でも早く彼の義務が終わればいいのであった。医者のやるようなことが、彼の義務であることも癪《しゃく》にさわることであったが、それは、彼がそれでパンを得ている以上、仕方のない災難なのであった。彼は、彼もパンのために、そのいやな仕事を持っていることを知ると同時に、もっと悪い条件の下《もと》にパンを求めているものがあり、それが「おもてのならずもの」どもであることを知らねばならないはずであった。ところが、彼は、ブルジョアが、彼と自分とを区別してるとすっかり同じように、彼とセーラーらとを区別していた。「おれは紳士だが、やつらは労働者だ」あるいはもっと正確には「おれは人間だが、やつらはセーラーだ」と。
チーフメートは、限りなき嫌悪《けんお》の情を含みながら、ボーイ長をめちゃくちゃに、イヒチオールで塗りまくることを、(面倒臭いあまりに、そうするのではない)というふうにセーラーたちに見せたかった。彼はなさなければならないことの形式だけをやって、しかも感謝の念をセーラーたちから盗もうとさえたくらんだのであった。
黒川鉄男《くろかわてつお》、これがチーフメートであった。黒川は、イヒチオールを塗りまくる間に、口をきくことは、それほど仕事の能率を妨げないし、また、それ以上仕事を、きたなくも困難にもしないと考えた。そして、彼がどんなに、この「虫けら」のようなボーイ長に対してさえ、人道的であるかを見せてやることはいい。と彼は考えた。
「おもては全く、寒いね、そしてまるでまっ暗じゃないか」と黒川は口を切った。彼はボーイ長の胸部にイヒチオールを塗布しながらいった。
「満船の時はどうも仕方がありません」と、ボースンは鞠躬如《きっきゅうじょ》として答えた。まるで、まるで、寒くて、暗くて、きたなくて、狭いのは、ボースン自身の罪ででもあるように。
「これじゃいくらお前らでもたまらないなあ」
「なあに、メートさん、新造船だから、いい方ですよ」とボースンは答えた。
「暗くて寒いことあ今始まったこっちゃないや、おまけに風呂《ふろ》だってありゃしない、これでもおれらは、人間並みは、人間並みなのかい」と藤原が後ろから、燃えるような毒舌を打《ぶ》っつけた。
チーフメートは早速《さっそく》方向転換の必要を痛感した。
「ボーイ長の傷は存外軽くてすんだね。おれはもうとてもだめだと思っていたんだよ、命拾いしたわけだね」
「そうさ、すぐくたばりゃもっと傷が軽いわけさ、手がかからねえからな」また藤原が口を出した。
セーラーたちは、何か起こりはしないかと内心好奇心に駆られて「事」の起こるのを待っていた。
「黙ってろ! よけいな口をたたくな!」チーフメートはとうとう爆発した。
「黙ってろ? 黙るさ、だが、手前《てめえ》らにゃ手前らの命は大切でも、人間の命が、どのくらい大切かってことはわかる時はあるまいよ。ヘッ」藤原はそのまま自分の巣へ上がって、煙草《たばこ》に火をつけた。彼は明白にチーフメートに挑戦した。
戦争はすぐ開かれるか、あとで開かれるか、どんな形において開かれるか、それは水夫ら全体を興奮の極に追い上げた。
黒川一等運転手は彼の策戦が失敗したことを承認した。そして、多分この事はこれだけで片がつかないだろうと、いうこともわかった。長びくような事件にならねばよいがと彼は心配していた。特にそれは、この場合では、彼にとって絶対に都合のわるいことであった。彼は、黙って、早く手当てを済ますに限ると思ったので、その手当てを急いだ。
かくして、イヒチオールはそれが、その本来塗らるべきところであろうと、または、傷をなして赤い肉の出たところであろうと、出血しているところであろうと、おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。
そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、安井《やすい》――水夫見習い――は、その全半身にただ気やすめだけのイヒチオールを塗布された。それは義務を果たすための一つの対象にすぎなかった。
安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。
彼は、からだの傷《いた》みと共に、堪《た》え得ぬ渇と飢えとに迫られていたのだった。
六
安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、今日《きょう》は、波田《はだ》が引き受けた。
「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。
「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答えた。
「そいじゃ今持って来るから待ってくれよ」
波田は、コックに、卵をくれるように頼んだ。
「卵なんぞぜいたくなものが、おもてに使えるかい、ぼけなすめ!」波田は一撃の下《もと》に、卵なんぞ「おもて」の者の口に入《はい》りかねることを教えられた。しかし、もし、卵がなければ、流動物を与えるのに困るのであった。
「どうだろう、ボーイ長が固い物は食べられないだろうと思うんだが、何か寝てて食べるようなものはないだろうか、とも(高級海員の事)のコーヒーへ入れるミルクを一|罐《かん》だけ分けてもらえないだろうかなあ」波田は食餌《しょくじ》のことは、チーフメートが医者ついでにやるべきものだと考えた。けれどもまた「やるべきこと」はおれたちだけにあるんだ。と思いかえした。
「それじゃシチャード(司厨司《ステューワアード》)へ話して見ろよ! 一両ぐらい出しゃ分けられねえこともねえかな、ぐれえなとこだろうぜ」このコックはおもての食費をごまかすために、とものコックから、給料を下げてまでも、おもてへ一つ船で鞍《くら》がえした、途轍《とてつ》もない「悪《わる》」であった。
「この野郎、鼻持ちのならねえ野郎だ」と思いながら、波田は、シチャードへ、ミルク一罐と、卵十個分けてもらえないかと交渉した。
「ボーイ長にやるんだって、ああ、いいとも、持って行きな、そうかい、じゃあパンを一斤ばかり持ってって、牛乳と卵とで湿してやるといいや、ほら、ここに砂糖と、……それだけでいいかい、そしてどうだね、ボーイ長の容態は」シチャードは親切に倉庫から、それらのものを笊《ざる》へ出してくれた。
「どうもありがとう。金はあとでおもてから払うからね、当分済まないが借しててくれないか」波田は全くうれしかった。
「いいよ、そんなこたあ、気をつけてやりな、若いもんだ。先のあるもんだからな」
「ああ、そいじゃ、ありがとうよ」
波田は、ともかくそれらのものを持って来て、ボーイ長に与えた。
彼は飢えた狼《おおかみ》のようにむさぼり飲んだ。ボーイ長が食欲を失っていないことが、波田には大層心強く思われた。
彼が安井のために、食事のしたくをする間にだれもが食事を終わっていた。そして、茶碗《ちゃわん》や、徳利(醤油《しょうゆ》)はころばないように、各《おのおの》その始末さるべきところへとしまわれてあった。彼は、それか
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