はまず水夫室へはいった。まだ十七歳の少年、水夫見習いは、痛さに堪《た》えかねて、「おかあ様、おとうさん」と、両親を叫び求めては、泣いていた。そしては、しばらく息を詰めて、死のような沈黙の中へ落ちて行くのだった。藤原は、ボーイ長の寝床の端板にもたれかかって、ボーイ長の顔をのぞき込んだ。けれども、見えなかった。一つの窓もあけられていない水夫室は、出入り口から星の夜のような光がかろうじてはい込み得ただけであった。ことにボーイ長のは二層|床《どこ》の下部に当たり、光の方を背にしていたので、最も暗かった。藤原は、自分の床から蝋燭《ろうそく》をとって、ボーイ長の枕《まくら》もとに立てた。彼は白ペンキのように青ざめて、そしてくらげのように衰えていた。
 まだ、チーフメートは、何らの手当てもしには来なかった。
 彼は、ボーイ長を慰めた。そしてすぐにチーフメートが「膏薬《こうやく》」を持って、のろのろ来やがるだろう、やつらには、労働者よりも、ブロックの方が比較にならぬほど重大なんだ、しかし、心配しないがいい、皆がついているからといって、ランプ部屋へしたくに行った。
 万寿丸は尻屋岬《しりやみさき》燈台沖にかかった。暴化《しけ》はその勢いを少しも収めなかった。
 水夫らはボートやサンパンを吹き飛ばされないように、それを、より一層ほとんど、吹き出したいくらいに、頑丈《がんじょう》に、これでは沈没した時に決して間に合わないと、証拠立てられるほど、それほど頑丈に、くどくどとデッキや煙突にまで、綱を引っぱった。そして、この仕事は、波浪の恐れは全然なかったが、動揺と、風と、おまけに「てすり」がないので、海へ落ちるという危険を伴った。ボートデッキは、船中で一番高い部分であって、それは士官室の屋根と天井とを兼ねていた。
 水夫たちは、一本のロープを持って、ボートの下へ仰向けにもぐり込んだり、ボートの外側――そこはデッキ板一枚の幅しかなくて、海面まで一直線にサイドなのだ――に、今縛りつける、そのボートにつかまって綱をからげるために、サイドへ足を踏んばって、海の方へからだを傾けたりした。
 ボースンは、すぐ前のブリッジから、船長が作業を見ていたために、その禿《は》げた頭を、章魚《たこ》のように赤くしてあわてたり、怒鳴ったり、あせったりした。

     四

 陰欝《いんうつ》な薄暗がりが、海上にはい出たために、右舷《うげん》に尻屋岬《しりやみさき》の燈台が感傷的にまたたき初めた。荒れに荒れる海上に、燈台の光をながむるほど、人の心を感傷的にするものはない。この海の上は、今にもわれわれの命を奪おうとするほど暴《あ》れ、わめいている。そして、われわれの家は宙天から地底《じぞこ》へまで揺れころぶ。そこには火もなく、灯《ともしび》さえもない。だのに、あそこには燈台が光る。その燈台は、しっかりと地上に立っていて、そこには家族がある。団欒《だんらん》がある。愛すべき子供がある。いとしい妻がある。そこには火鉢《ひばち》があるだろう。鉄瓶《てつびん》がかかってるだろう。正月の用意の餅《もち》が搗《つ》けてあるだろう。子供がそれをねだっているであろう。「もうねんねするんです。ね、夜食べると、ポンポンいたいたですよ。サ、ねんね」と、母は今年三つになった子供を膝《ひざ》の上に抱き上げるだろう。そうして、かわいくてたまらぬといったふうに、子供の頬《ほほ》にキッスするだろう。そうして、夫《おっと》と顔を見合わせてほほえむだろう。そして、「明日《あす》はまた随分沢山鳥が落ちてることでしょうね。こんなにしけるんだもの。鳥だって船だってかないませんわね」と、いって、火鉢から鉄瓶をおろして、茶でも入れるだろう。そして、子供に隠して、その父から一枚の煎餅《せんべい》を出してもらって「坊やはいい子ね、サ、お菓子」といって出し抜けに子供にそれを与えるだろう。
 だのに、おれたちは、凍えるような風と、メスのような浪《なみ》と、雪のように冷たい資本家や、氷のように冷酷な船長の下《もと》で、労働をしているんだ。おれは何だって船員になんぞなったんだろう。
 ことに家持ちの下級船員はそうであった。彼らは、そうでなくてさえも、その家庭にたまらなくひきつけられているのに、暴化《しけ》のときには、その心持ちは長い刑を言い渡された囚人が、その家族のことを身も心もやせ砕けるように恋い慕い、気づかうのと異なるところがなかった。全く、今では、両|舷《げん》から、鯨油を流してさえいるくらいであったから。鯨油を流すことは、暴化《しけ》もはなはだしくならないとやらないことであった。
 尻屋の燈台はセンチメンタルにまたたく。日は暮れかけて、闇《やみ》は、波と波との谷間から煙のように忍び出しては、白い波浪の飛沫《ひまつ》に、け飛ばされていた。
 舵手《だしゅ》の小倉は、船首を風位から変えないように、そのあらゆる努力を傾注していた。彼の目はコンパスと、船の行方《ゆくえ》とを、機械的に注視していた。
 と、本船の前|左舷《さげん》はるかな沖合に、一|艘《そう》の汽船が見えた。「あ、汽船が!」と、小倉は無意識に叫んだ。
 船長もチーフメートもだれもがブリッジの左舷へ集まって、望遠鏡のレンズを向けた。
 この少し前から、ボートデッキで、サンパンの下にもぐり込んで仕事していた、水夫の波田芳夫《はだよしお》というのも、今小倉が見つけたのを見つけて、一人《ひとり》でサンパンの下からながめていたのであった。
 ブリッジでは望遠鏡があるために、その汽船は救助信号を掲げて、難破漂流しつつあるものであることがわかった。
 ブリッジからは、直ちにエンジンへ向けて、フルスピードを命令した。一つ救助に出かけようというのであった。
 全乗組員は難破船が見えると、その救助に向かうことを直ちに知ってしまった。そして、全員はボートデッキへスタンバイした。
 わが勇敢な、しかも自分も腹半分水を飲んだ半|溺死人《できしにん》のような、万寿丸は、その臨月のからだで、目的の難破船に、わずかに船首を向けた。きわめて、それはわずかの程度であった。が、本船はグーッと傾いた。そして見る見るうちに、その舵《かじ》が向いてもいないにかかわらず、グングンその頭を振り初めた。そして、同時に物すごい怒濤《どとう》が、船首、船尾の全部をのもうとするように打ち上げて来た。
 船長は、今いったばかりであったにもかかわらず、方位を元へ返した。本船はきわめて短い五分とかからぬ間《ま》に、ほとんどコースを半回転しようとしたのであった。
 難破船のやや近くへ近づくことはできたが、本船はその船首を非常な努力の下《もと》に従前どおりの位置に返してしまった。
 難破船を救うということは、本船を一緒に沈める計画になるというので、船首はもうその向きを換えなかった。けれども哀れな兄弟《きょうだい》たちの乗り込んでいる妹の難破船は、だんだんわれわれの視野に大きく明瞭《めいりょう》にはいるようになった。われわれは、今のコースをもって進むならば、四マイルぐらいのそばを通過するであろう。
 波田《はだ》は、サンパンの下からはい出してなおも一生懸命に、煙突にもたれて、寒さと、つかみどころを同時に得ながら見入っていた。狂犬の口をおおう泡《あわ》のようなおそろしい波浪と、この夕暗《ゆうやみ》とに、あの船はのまれてしまうんだ。彼は自分が二度も沈没に際会した時の事を思い浮かべては、その難破船に射込むような目を投げていた。
 その小さな五百トンぐらいの小蒸汽船は、北海道沿岸回りの船らしかった。今やその煙筒からは燃え残りの煙草《たばこ》ほどの煙も出ていなかった。汽罐《きかん》に浸水したのはもうずっと早いことだったろう。そのマストの下の方には、桟橋に流れかかったぼろ布のように帆布が、まといついていた。汽罐に浸水してから、どこかのカバーでもはずしてマストに縛りつけたものであろう。わずかにデッキの上でバタバタと、その切れっ端《ぱじ》が洗濯《せんたく》したおしめのように振れていた。
 それにしても船員は、ブリッジにも、マストにも、デッキにも、どこにも見えなかった。津軽海峡を越す時に命を捨てて、ボートででも本船を捨てたのであったのかもしれない、または、その各《おのおの》の室に凍えたからだを、動揺のままに、お互いに打《ぶ》っつけ合ったり、追っかけ合ったりして、楽しみのなかった生前の労働者の運命をのろい悲しんでいるのかもしれない。しかし、この暴化《しけ》はそれほど長く続いたわけでもなかった。本船出帆の前日がその最高潮であったのだからまだ二昼夜しかたっていない。船員は、あるいは、一室に集まって、別れのための最後の貧しい食事でもしているのかもしれない。
 「ああ、おれは二度まで沈没船に乗っていた。一度は胴っ腹を乗り切られ、一度は衝突だった。が、どちらも瀬戸内海で、一度は春の末、一度は真夏であった。そして、そのどちらの時も救われた。けれども、北海道の冬の海ではとても助かりっこはあるまい。おれは、瀬戸内海で沈められた時に、海の中に飛び込みざま『助けてくれ』と怒鳴った悲鳴を今でも思い出せる。その叫びをあげる刹那《せつな》は全く、ありとあらゆる記憶、あらゆる感じ、それらのものが、一度に総勘定でもするように頭に浮かんで来た。そして、『十八ではまだ死ぬのに、二年早すぎる』と、おれは思った。何で二年早すぎたのか自分でもわからない。けれどもハッキリ自分は二年早すぎると思った。おお! もし、あの船の人たちが、死んだとすれば、皆おれと同じ感じを、抱《いだ》いて死んだことだろう。死ぬのには、人間は何歳になっても二年早すぎるのだと、自分はこのごろ考えるようになったが、全く、どのくらい多くの人が二年ずつ早く死んで行くことだろう。それにしても、この船長は何という冷酷、残忍なやつだろう。わずか四マイルや五マイルより離れていないのに、その最後を見届けようともしないとは。自分の悦楽《えつらく》のためにはこの船長はおれたちの生命を、いつでも鱶《ふか》の前に投げてやるだろうに。おれは、その沈没船に代わってでも、また、この船員たちのためにも、船長とたたかう時が必ず来ると信ずる」と、波田は考えにふけった。
 難破船はますます近づいた。日は暮れたけれども、まだ夕明りである。船は、今ならば、もっと難破船へ近づくことができるのであった。が、わが、勇敢な万寿丸は船員全体の希望にもかかわらず、船長の一言によって、冷ややかに姉妹の死を見捨てて去ることになった。そして、本船には、救助不能の信号が揚げられた。相手へ知らすためのでなく、乗組船員をごまかし、同時に海事日誌をごまかすための。
 実際、この時|暴化《しけ》はだんだん凪《な》いで来たのであった。船員は一時間前の勇敢なる船長の行動を不審に思うのであった。
 そのかわいい小柄な船は四十五度以上五十度近く傾いて、今にもそのまま、沈み行きそうに見えた。そして人はどこにも見えなかった。甲板の上は見事に掃除《そうじ》されて、その掃除手の怒濤《どとう》は、わずかに甲板のすみに凍りついて残っているのみであった。マストのカンバス(帆布)は、ハッチの上部カバーであった。それは全くさびしい姿であった。火のない船であった。人のいない船であった。生命のない捨てられた世界であった。われわれは皆サロンデッキに並んで、浪と運命を共にするであろう、その船に別れを告げた。だれの心にも黒い、寒い寂寥《せきりょう》が虫食った。
 これは、やがて、わが万寿丸の運命でもあった。われらが、船底に飢えと寒さとに倒れて漂流する時に、も少し大きな船がまた、われらの傍《かたわら》を通るであろう。われらは信号を掲げねばならぬことを知っているだろう。またわれらは、人間がその船室に凍えかけていることを、知らせる必要のあることを知っているであろう。それにもかかわらず、だれも甲板に出ないであろう。出られないのだ。途中でたおれてしまうのだ。
 そして、ようやく、最後の一人《ひとり》がデッキへはい出た時には、今
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