つして、それを漕いで行った。
 そして、そのまま、どこへ行ったか、見えなくなってしまった。カッターはそのあとでおろされた。そしてそれは、サードメーツ、チーフメーツまで乗り込んで、ほんとうに漕ぎ方の練習をやった。「伝馬は」といって、チーフメーツはカッターの上へ立って方々をながめたが、それは見えなかった。
 カッターは引き上げられた。そして日は暮れた。伝馬はもちろん帰って来なかった。伝馬の連中が、もし、船長を連れて行ってるならば、このような問題は起こらないのだったが、船長は船に残っていたのだ。
 船長は、たたき落とされた熊蜂《くまばち》の巣みたいに、かっとなって憤《おこ》った!
 自分の妻君の姦通《かんつう》をかぎつけた亭主のように、その晩船長は一睡もしなかった。そして、そのおかげで、ボーイも眠れなかった。というのは、船長は、のべつに、ベッドから飛び上がっては、「ボースンはまだ帰らないか、帰ったらいつでもいいから、すぐにおれのところに連れて来い、わかったか」だの「伝馬はまだ見えないか」だのと、怒鳴り続け、ベルを鳴らし続けたからである。
 「まるで狂人病室だ! 看護人はたまらん」ボーイは背中をボリボリかきながらこぼした。
 全く船長にしてみれば、その誇りを傷つけられ、自分の優越感を裏切られ、自分の特権を蹂躙《じゅうりん》され、ことに彼さえもまだ遠慮していたのに、「女郎買い」に行ったことは、彼を「愚弄《ぐろう》」することはなはだしいものであった。それは、昔ならば「罪まさに死」に相当すべきであった!
 彼は時々ベッドから、飛び上がっては、ボーイを怒鳴った。それは足へ煮えたぎった湯でもかかった時のように飛び上がるのだった。そして、彼は飛び上がるたびごとに、「きゃつら」に対する復讐《ふくしゅう》を一層残忍にしようと考えるのだった。
 ボースン、ナンバンらが「出し抜いて」直江津の、自分自身の家を一軒独立に構えている女郎買いに行ったことは、憤怒の余り、船長を発作的の熱病患者みたいにした。
 わずか、しかし、このくらいの事で、何のために、それほどまでに船長が、憤《おこ》らねばならなかったか、それは、だれにもわからないのだ。それほどに憤慨しなければならない「理由」を、いまだに「発見ができない」とおもての者たちもいっているのだ。それは多分、「虫の居どころ」が悪かったのだろう。そして、虫の居どころが悪かったために次のような結果になってしまった。

     三五

 その夜は、船長にとっては、全く不愉快きわまる長い夜であった。その夜は、ボースン一行にとっては、全く愉快きわまる短い一夜であった。そして、おもての者たちにとっては、それは、灰色に塗りつぶされた、懲役囚の一夜のように惰力的な一夜であった。
 その夜が明けると、ボースンらは、陸地近くの、日本海特有のまき浪《なみ》の中から、その伝馬《てんま》の姿を見せた。浪は、その波のような色と幅を持って、沖の方から陸地の方へ巻きころがして行く反物《たんもの》のように見えた。伝馬は、陸近くでは、よくこの浪に見事にくつがえされるのであった。伝馬は巻き込まれるように見えた。が、すぐにヒョコリと現われた。芥子粒《けしつぶ》のような伝馬は、だんだん大きくなって来た。
 よせばいいのに、ボースン――海軍出のおもしろい男だった――は、伝馬の舳[#「舳」は底本では「軸」と誤記]《へさき》につっ立って、その功を誇りでもするように、ハンケチを振っていた。
 それは、客観的には浦島太郎が、龍宮の乙姫《おとひめ》様のところから、帰って来るのではないかと思われるほど、美しく、詩的であった。
 黒青い、大うねりのある海には、外には一|艘《そう》の船もなかった。空気は甘く、恋人の肌《はだ》のようににおった。空は海一杯を映した鏡のようだった。伝馬の背には、白い砂山の続きの間から、松と屋根とが延び上がってのぞいていた。
 一切が澄みわたって、静かであった。それは一九一四年のことではなくて、紀元二百年の日本海と名のつかない、前の海面であった。
 そしてボースンは乙姫様からもらった箱をさげて、ハンケチを振っていた。
 ボーイが、船長にボースンの伝馬が見えると報告した時の、彼の憤《おこ》り方の気持ちや、態度を説明するのには、匙《さじ》を投げる。
 彼は、ドイツ製の双眼鏡をオッ取って、ブリッジに駆けのぼった。彼の双眼鏡は伝馬を拡大した。
 「図々《ずうずう》しいにもほどがある、やつはハンケチを振っている!」彼はうなった。
 水夫たちも、火夫たちもデッキへ出て、悲惨な遊蕩児《ゆうとうじ》たちをながめた。伝馬は近づいた。大工は鼻歌をうたっていた。彼は、また声がいいのだ。それは、だれでも聞く者を、母にすがりついて乳を飲んでいたころの、甘い追憶を誘い出さずには置かなかった。
 彼らは、おもてからロープをおろしてもらって上がった。
 彼らが、皆まだ上がり切らないうちに、コーターマスターが飛んで来た。
 「伝馬はそのままにしといて、ボースンにすぐ来いって、船長が」とボースンにいって、
 「オイ、ボースン、気をつけないと、まっ赤《か》になって憤《おこ》ってるぜ」
 ボースンは、女房と、六人の子供が、打ち上げられた藻屑《もくず》のように、ゴタゴタしている、自分の家庭のことを思い出してしまった。「こいつあしまった。行かなきゃよかった」と、彼は思った。深刻に彼は悔いた。悪いと思ってでなく、より悪いことの誘因になったことを、彼は、……頭をデッキへ打《ぶ》っつけたかった。……心臓がまるで肋骨《ろっこつ》の外側についてるように、彼は、動悸《どうき》がした。捕《つか》まった犯罪人のように、彼は、自分の運命が決定したことを直感した。彼は、その破滅に瀕《ひん》した自分の家で、疲れ衰え弱った、妻や、子供らと一緒に飢え凍えている状態を想像して、震えながら、船長の所へと行った。
 彼の共犯者? たちも、霜寄りした魚のように、一つところに集まって「困った」のであった。三上だけが一人《ひとり》その中で、昨夜はいかにして遊んだかということを、仲間の者に発表する勇気と、発表せざるを得ない衝動とを持っていた。
 その話によると、若い船員たちにとっては、その歓《よろこ》びを得たことは、そのために首を切られることがあるにしても、なおかつ非常にいい、得難いことであった。なぜかならば、
 三上はこう説明した。「ほんとに、自分の亭主のように親切にした」と。
 彼らは、人間の「愛」には、うそにもほんとにも、沙漠《さばく》のように渇《かわ》き飢えていたのだ。沙漠にオアシスの蜃気楼《しんきろう》を旅人が見るように、彼らは「愛」の蜃気楼さえをもさがし求めたので。それは「愛」の形骸《けいがい》であったかもしれない。しかも彼らは、それ以上のものを知らなかったのだ。彼らは、そこへ持って来て、原始的な制度の残っている、いくらか何か真実らしいもののある――それは、彼らの幻影と、極端な想像とから来たものであろう――「愛」の一夜を過ごしたのだ。
 彼女らが、彼らに、ほんとに人間として、仲間として接近された時、彼女らも、時としては、その夜、強い反抗と、自暴自棄とから、涙の多いその女性としての一面をフト、見せることがあるものだ。それは、よくないことであろう。だが、それから先には、なおらないであろう。
 船長はサロンに待っていた。チーフメートもそこにいた。セコンド、サードもそこにいた、陳列されたように頭をそろえていた。船長はそれらの人間にとっても、犯すことのできない人間であった。従って、ボースンなどは「陪臣」であった。
 ボースンは落ちて来た煙火《はなび》の人形のように、ガッカリしていた。彼は、ドーアのところへ立って、マゴマゴしていた。彼はためらっていたが、死のような沈黙と、屍《かばね》のような冷たい目とが、集まっていたので、そのまま思いを決めて、中へはいった。
 そこは、まるで法廷のようであった。そこでは、善人と悪人とは決定されてあった。
 ボースンのしたことは、論ずる余地がなかった。
 「お前に下船を命ずる! 今からすぐに。荷をまとめて、あの伝馬で上陸して行け、合意下船ではないぞ、下船命令だ! それでよろしい」
 きわめて簡単であった。抗弁もなかった。ありもしなかった。余裕もなかった。船長は自分の室へ、赤くなった目を休めに引っ込んだ。それぞれメートらも幽霊のごとく引き取った。
 ボースンはおもてへかえった。そして、どっかと自分の寝箱の中へ、からだを投げつけた。一切は決定した。ボースンは業務怠慢で下船命令を食ったから、一年間乗船を海事局の名によって停止されるのだ。それだけの事実なのだ!
 悲惨なる事実は、新聞の三面に「死んだ人」の欄に一括して載せられる。ブルジョアの結婚が破れたことは、全紙を数日間にわたって埋《うず》める。それだけのことなのだ!
 (以下十九字不明)凍死し、飢え死にし、病死し、自殺し、殺戮《さつりく》されることは、その状態なのだ! (以下七字不明)! もし、新聞や、その他の社会が事実を顛倒《てんとう》してると考えるならば、それは、君が資本主義の社会を見ていないからだ。
 もし、それらの悲惨なる事実がなかったならば、それらの悲惨事の上にのみ建つ、ブルジョアの社会建築はどうなるのだ。それは、だから、実は悲惨事ではないのだ。貧窮のために死滅して行くことは、すこしも悲惨ではないのだ。死滅して行くほどに多数が貧窮であるからこそ、これほど、ブルジョアが富んでいるんだ!
 だから、一切は、最上の状態なので、「これを動かしてはならない!」のだ。
 ボースンは、そこらの物を片づけ始めた。帆布で作った袋の中へ、一切合財押し込み始めた。そして、その間に、アーッとため息をもらした。曇った夕暮れのように、どんよりと考え、どんよりと感じた。彼は寝床の下から、長いこと、そこにつっこんであった、破れたゴムの長靴《ながぐつ》をとり出して、それにながめ入っていた。白い粉のように、塩がフイていた。が、彼はその靴の事を考えているというわけでもなかった。彼は、それをぼんやりと見入っていた。
 ナンバン、大工などの連累者は、ボースンの命|乞《ご》いを計画して、それぞれ手分けをして頼み回っていた。ことに大工は、船長と同じ国の山口県の者であった。彼は、国者《くにもの》という、――何という哀れな、せせこましい、けちくさいことだろう、――理由で、船長のところへ、日ごろの寵《ちょう》を恃《たの》んで出かけて行った。
 「お前が、国の者でなかったら、お前も一緒なんだぞ!」大工は、船長にそう怒鳴りつけられて、失望したような、ホッと安心したような、何だか浮き浮きしてうれしそうな気にまでなりながら、おもてへかえって、「だめだった」ことを報告した。そして、心の中では口笛でも吹きたいような元気元気した気になった。
 三上は、何とも思わなかった。それは、人のことなのだ! ナンバン、ナンブトーも、同様であった。
 読者は、作者に対してこのことで憤《おこ》っては困る。作者が冷淡にしたわけではないのだ! もしまた、皆がそうでなかったら、ボースンがおろされるようなことも初めっから生じ得なかったろう。要するに、労働者が結合していないことを、作者に向かって憤られるのははなはだ迷惑だ。
 ボースンはばかな子が、その帯をくわえるように、その靴をいつまでもいじくっていた。
 しばらくして、彼は、その靴を床へ力一杯たたきつけた。そして、しばらくまた考えていたが、また、それを拾い上げて、その破け目を子細に調べて、ソーッと、下へ置いた。彼は、寝床の縁板《へりいた》のすみに、セルロイドの妻楊枝《つまようじ》を作って置いてあった。それは歯のためにいいだろうと、彼は自分で思い込んでいた。彼はまた、それへ目をつけた。これはどうしよう。彼は、それをとり上げて、また、子細に検査を始めるのであった。一切のものが急に、非常に重大な、貴重なものであるように、彼は感じ初めた。
 水夫たちは、ボースンの室をのぞい
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