ぎていて、密航婦を、チエンロッカーから出すことを忘れてしまった。
そこで状態は、投錨《とうびょう》の際に一度に悪化した。鎖の各片、人肉の各片、骨の各片、蓆《むしろ》の破片ともつれつ、くんずして、チエンホールから、あるいは虚空《こくう》へ、あるいは鎖と共に海へ、十三人の密航婦を分解、粉砕して、はね飛ばしてしまった。船首甲板に立ち並んでいたボースン、大工はもちろん、水夫、チーフメーツらは肉醤《にくしょう》を頭から浴びた。
波田は、チエンロッカーが、そんな歴史を持っていることによって、その困難な労働をなお一層不快ないやな、堪《た》え難いものにした。それを思い出すと、彼は全くチエンロッカーにはいることが、何よりもいやであった。そして、はいって来る鎖の一片一片が、まるで、自分をねらって飛んででも来るように感じるのだった。
彼は肉体的にはもちろんであるが、精神的にもこの上ない疲労を感じて、チエンロッカーから上がった時はまるで溺死《できし》しそこねた人のようであった。
その仕事着には海底の粘土が、所きらわずにくっついていて、彼の手や顔は、それでいろどられて、くまどりしたように見えた。顔の色は劇動のために土色であった。心臓はむやみやたらに、はね上がった。頭が痛く、目がくらんで、彼は、しばらくデッキへ打《ぶ》っ倒れるか、その辺にあるどんなところへでも、打《ぶ》っ倒れるのが例であった。
だれかが、このチエンロッカーにはいらなかったならば船は動き得ないのであった。波田は、破れそうな心臓に苦しみながら、どんなに多く与え、少し得ているかを思わずにはいられないのであった。
「おれたちは死ぬほど苦しんで、こんなありさまだのに、遊び抜いて、住みもしない別荘を、十も持った人間が、この船を持ってるのだ!」
万寿丸はかくして桟橋へ横付けになることができた。
桟橋の上は、夕張炭田から、地下の坑夫[#「坑夫」は底本では「抗夫」と誤記]らの手によって、掘り出された石炭が、沢山の炭車に満載されて、船の上の漏斗《じょうご》へ来ては、それを吐き出して帰って行くのだった。
数十間の高さに、海中に突き出している高架桟橋上の駅夫や、仲仕の仕事は、たとえように困るほど寒いものに相違なかった。
人はストーブにあたって、暖かいコーヒー、暖かい肉を摂《と》るべき時候であった。そして多くの労働者は、それを作り出すために、各《おのおの》、危険と鼻面《はなづら》を突き合わせて、凍え、飢え、さまよいながら、労働すべきであった。で、一切はおめでたくその通りに進行し、幾千代かけてのどかなる年の初めが、十日の内には来るべきであり、また、めでたくも暦さえ間違いなくば来るのであった。
そこでブルジョアどもは新年宴会をやるのであった。二次会が開かれるのであった。
が、そんなところまで、話を飛び越えてはならない。
三一
ボイラーを吐き出すと、すぐに飯を食った水夫たちはそのまま船首甲板へ上がって、桟橋横付けの作業にとりかかった。ボーイ長は、食事の時に藤原に頼んで、
「今夜はぜひ病院へやってもらうように、船長に頼んでくれませんか、もうこの上とても辛抱がなりません」というのであった。
「いいよ。だがね、今から、桟橋だから、桟橋へついてからにした方がいいと思うよ。それにまず、そんなものはどうでもいいとしても、順序ってものがあるそうだから、ボースンに一度話して、ボースンから最初に話し込んでもらって、僕も、その時、一緒について行って話をつけたらいいと思うよ。ま、何にしても、苦しいだろうが、今夜まで待ってくれたまえね。今度は僕も、そのつもりでいるんだから」と藤原は快く、請け合ってくれた。ボーイ長は非常に喜んだ。
桟橋にも、馬蹄形《ばていがた》の街《まち》にも、その後ろなる山も、高原も、みな、美しく、厚い、雪で念入りにおおわれ、雪面を吹きまくる北海道の風はしびれるように痛かった。
万寿丸は桟橋へついた。桟橋の漏斗《じょうご》はその長いくちばしを、船のハッチの中へ差しのぞけた。それからは白い雪の代わりに黒い石炭が降って来た。
船員たちは、船長から、水火夫に至るまで、自分を、完全に縛りつけている、その動揺する家屋から、解放しようとして、それぞれ準備に忙しかった。
船長は、室蘭から少し内地へはいった登別《のぼりべつ》という温泉地へ、室蘭|碇泊《ていはく》中は必ず泊まり込んでいた。そこには、彼の妻や子供の代わりに、彼の愛妾《あいしょう》がいるのであった。
一般に北海道に美人が多いかどうかは、わからないが、しかし、飛び抜けた美人を時々、われわれは北海道で見る。色が「抜ける」ほど白くて、顔立ちの非常に高雅な美人を、われわれは、雪に埋《うず》もれた山腹の遊郭にさえ見いだすことができた。それは寂しい情景であった。船員たちにとっては、彼らの手に負えない夢幻的な情緒であった。従って水夫たちにとっては、それは本能的な、肉欲的な、一対照より以外ではなかった。
彼は、今夜も、そこへ行くために、汽車の時間表とにらめっこをしながら、したくを急いでいた。
船長が、そのダイアモンドのピンを、ネクタイに「優雅」にさそうとしている時に、純白の服を着けたボーイは船長室の扉《とびら》をたたいた。
「何だ?」船長は怒鳴った。
「ボースンとストキとが、お目にかかりたいといって、サロンで待っております」
「用事だったらチーフメーツへ話せ、といえ」彼はピンの格好について、研究を続けた。ボーイはサロンに待っていた、ボースンとストキに、その由を伝えた。
「それじゃ」と、ボースンは、それをいいしおに、ストキにいいかけた時であった。
「どうしても、会わなきゃならないんだ! ぜひ、会いたいって、も一度取り次いでくれたまえ」ストキは、ボースンをおさえてボーイにいった。
ボーイは「何だい一体」とストキにきいた。
「ナアに、ちょっと会って話せばいいことなんだよ」気軽に藤原は答えた。
「奴《やっこ》さん、登別に行くんで、急いでるんだよ」
「ところが、こっちはもっと急ぎの用事なんだ、ちょっと頼む」
ボーイは再び船長室の扉をたたいた。
「ぜひお目にかかりたいといっています」
「だめだ! 時間がないんだ!」船長は鏡の中の自分に見入っていたが、チェッと舌打ちをした。
「うるさいやつらだ、用事は何だときいて見ろ」ばか野郎めらが、と、彼は考えの中でつけ足した。――手前《てめえ》たち全体の運命は横浜までだ。代わりのボースンはもう横浜まで来てるんだのに、ばか野郎らが――船長は蛆虫《うじむし》どもの低能さに対して、ちょっと冷やかしてやってもいい、という気を起こしたほどであった。
「ボーイ長の負傷の手当てをするために、室蘭公立病院へやっていただきたい、というのだそうでございます」
「ボーイ長! そんなものはだめだ、と、そういっとけ」何だ一体ボーイ長の負傷とは、ばかな。そんなものは船の費用から出せるかい。べら棒な。冗談も休み休み、機《おり》を見ていうがいいんだ。時もあろうに、自分らの首の運命の決していようという時に。それに今は上陸間ぎわじゃないか、ゴロツキどもめが! 船長は、ボーイ長が負傷をしたことを、今、言われて見て、思い出すには出したのであった。そして、それは手当てをしなければならないであろう。――が、――それはこんな場合ではもちろんないはずだ! と彼は思ったのであった。
一体それはいつのことだ。横浜でやるべきではないか、今ごろになってそんなことをいうのは因縁をつけるというものだ! しかし、これは彼の思い違いであった。横浜では船長に話す間がなかったし、それに、チーフメートは、船長に相談してからにするというので、横浜では、フイになったのであった。
船長は、登別の温泉に、彼女――それは全く美しい若い女であった。そしてそれは、白樺《しらかば》のように、山のにおいの高い、澄んだ渓流のように作為のない、自然人であった。――をしっかりと、あのあらゆる力と情とをこめて、彼女を抱き締めることの回想と予想とで、血なまぐさい、汚《よご》れた、現実的な、ボーイ長の問題などは、その余地を頭の中へ置き得ようはずがないのであった。
「どうしても、それが必要なら、それはチーフメーツがうまく片をつける事柄なんだ!」船長は、ズボン――押し出してしまったあとの絵の具チューブかなんぞのように、ピッタリ一|重《え》にくっついた――の中へ足を通した。
「北海道じゃちょっと類がない、すがすがしい気持ちなもんだ。ズボンの折り目の立っているのは」彼はちょっと足を前へ踏み出すように振って見た。「上等」それで彼のズボンの試運転は通過した。
彼は十八の少年のように急ぎながら、彼女に与える指輪を、自分の小指へ光らしながら、理想的に船長らしい、スッキリした立派な服装と、その姿勢とを、サロンデッキへ現わした。
そこには、その寒さにもかかわらず、ストキとボースンとが立って、彼の出て来るのを待っていたのであった。彼はハッとして立ち止まった。
ボースンは、とっつかまえられた、コソ泥棒みたいに、しきりに尻《しり》ごみしながら、ストキにつかまれ、励まされて待っていたのであった。が、彼は一体、何をいえばいいのだ! 彼には言うべきことはなかった。けがをしたのは見習いであって、女房子を持った哀れな、老いた彼ではなかった。「おれはこの船をほうり出されたらどこへ行くことができるんだろう。橋の上か、墓場かだけじゃないか、おれは今は、おれのためよりも、子供らや家内のために、働いているだけのものだのに、おれは、……ストキは全く困ったことをさせるわい。見習いのけがとおれと、一体何の、……そりゃ関係はあるにしても、船長が一度いかんと言ったものをナア……おれは、第一寒くてやり切れないや」
ボースンは、ストキの顔をせっぱ詰まって拝むようにながめ、そしてまた、船長にあわてて敬礼をした。
船長は黙って行きすぎようとして、タラップの方へ歩みかけた。
ストキはボースンを小っぴどくつついた。ボースンは目だけをパチパチさせて、口は固くつぐんでいた。それは一秒おそくてもいけなかった。続いて第二発目のストキの拳固《げんこ》がボースンの横っ腹へ飛んで来た。と同時に、
「船長」と太い、低い、重々しい声がおさえつけるように、ストキの口から呼ばれた。
そしてストキは、ボースンを打っちゃらかしたまま、船長が今おりてゆこうとするその前へつっ立った。
「船長! 水夫見習いの安井|昇《のぼる》ってのが負傷したのは知ってますか、それが、今日《きょう》は病院へやってもらいたいといってるんです」
「それがどうしたんだ」と船長は頭のさきから、足の爪先《つまさき》まで、ストキの長さを目で測量した。
「上陸禁止にでもなっているのか、そうでなかったら、今日でも明日《あす》でも病院へ行けるじゃないか、だが何だって、お前はそんなところに立ちふさがってるんだい」船長は、暴化《しけ》の時に、夜中、深海測定をやるのと同様に、厳密に、幾度も幾度もストキの長さを、全く腹が立って頭の熱くなるほどの、熱心さと冷静さとで測定した。
藤原はそのあらゆる激怒と、憤懣《ふんまん》とを、船長の前で、そのしっかり踏んだ足の下に踏みつけて立っていた。
「だが、負傷手当を船から出すべきじゃありませんか。それに、足を負傷して寝ているものが、この雪の中を歩いて行くというわけにも行きませんからね。俥《くるま》賃と、診察料とを払ってくださいまし。それに、……」
船長は、爆発した。
「負傷手当を船から『出すべき』だ? べきだとは何だ! べきだとは! そんな生意気な横柄《おうへい》なことをいうんだったら、どうとも勝手にしろ、おれは、手前《てめえ》らに相手になってる暇はないんだ! ばかな!」
船長は怒鳴りつけると、そのまま、桟橋へとおりて行った。
藤原は自分の足の下に踏んでいたかんしゃく玉を、そうと、やっぱりおさえつづけた。彼はアハハハハハと、船長の
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