後ろ姿に向かって哄笑《こうしょう》を浴びせかけた。
 船長は桟橋の上へ飛び上がった。ポケットで金が鳴った。彼は、ひどく怒《おこ》りはしたが、先を急いでいた。
 「明日《あす》、片をつけてやるから」と自分をなだめながら、桟橋の闇《やみ》へと消えて行った。
 彼は、しばらくすると、ほとんど全速力で駆け足に移った。何だか、メスが、自分の心臓に向かって光りそうで気になってならないのであった。このごろはどうも、おかしい。三上――藤原――、どうもよくない傾向だ。彼は、後ろを振り向いた、狐《きつね》のように幾度も幾度も振り向いた、桟橋は黒く、まっ暗であった。本船の碇泊燈《ていはくとう》が、後ろに寒そうに悲しくまたたいていた。
 やがて桟橋が尽きて、海岸に出た。雪は二尺余り積もっていた。海岸に小溝《こみぞ》のように深く雪道が踏み固められてあった。
 室蘭の町は廃墟《はいきょ》のように、雪の灰の中からところどころのぞいていた。人魂《ひとだま》のように街《まち》の灯が、港の水に映っていた。のろいの声を揚げて風が波をつき刺した。彼は外套《がいとう》の襟《えり》を立て、首巻きを耳まで巻いてフルスピードで停車場の方へと急いだ。
 停車場は室蘭の町をズッと深く入り込んで、馬蹄形《ばていがた》の一端に寄った方にあった。さびしい、終点駅であった。停車場は海岸の低地にあって、その上の方には、遊郭の灯が特に明るく光っていた。
 冷酷な、荒涼たる自然であった。その前では人は互いにくっつき合い、互いが、互いに温《あたた》め合い、たすけ合わねばならないように感ぜしめられるのであった。
 何だか、人なつっこくなるのであった。
 船長はストキや船員を反撥《はんぱつ》して、登別へ引きつけられた。そこでは彼は自然の冷酷さからしばらく逃《のが》れうるのだ!
 ストキはわめくような笑いを船長に浴びせると、そのままグルリと振りかえって、おもての方へ帰って行った。ボースンは、すごすごとついて行った。
 おもてでは大工は、ボースンが来るのを、したくをすっかり済まして待っており、水夫たちは藤原の帰るのを待ちくたびれていた。
 藤原は、おもてへはいった。食卓の前のベンチへ倒れるように腰をおろした。
 「どうだったい」と皆はきいた。
 「だめだ! 今度はチーフメーツだ」と彼は答えた。もし彼は、彼がボーイ長が診察を受け、治療を受けるだけの金を持っていたならば、チーフメーツへなんぞ、再び交渉に行くわけがなかった。その結果は、あまりに彼にはハッキリ見え透いている。けれども、彼がもし、ボーイ長を自分の費用で連れて行き得ない限りは、彼はありとあらゆる手段を試みる必要があったのである、[#「、」は筑摩版では「。」]そして、それは、また、彼を救うと同時に、ボーイ長を絶望から、しばらくでも引き止めて置くところの、唯一の残された方法なのであった。
 「チーフメーツの方もどうなるかわからないから、もし、それがだめだったら、おもてで出し合うってことにしよう。そうすることは、まるで船主にロハでくれてやるようなもんだが、この際仕方が、ほかにあるまい。そして大丈夫チーフもだめだと思うんだ。船長の許さないものをおれが、というに相場はきまってるんだ。だから、一人《ひとり》頭二円ずつぐらい金を集めて置いてくれないか、それはボースンに頼もう。今持ち合わせのない者は、ボースンに立て替えて置いてもらうこと。ということにしていたらいいだろう。ね、僕は、チーフのところへ行って来るから、頼みますよ」
 彼は出て行った。波田は、彼が出て行ってしばらくすると、ボースンに、五円貸してくれと頼んだ。そして二円をボーイ長へ割《さ》いて、三円をふところへしまい込んだ。そして、彼は、デッキを通って、チーフメーツの室の付近へ行って、藤原の交渉を聞こうと試みた。しかし、チーフメーツの室は固く扉《とびら》に錠がおろされて、人の気配《けはい》がしなかった。彼はサロンデッキを一回りした。けれども何事も、そこでは起こってはいなかったし、また、だれもそこにはいなかった。
 波田は――それでは、藤原君はどこへ行ったんだ?――と思いながら、おもてへ帰って来た。
 藤原はもう帰って来て、水夫たちに、チーフメーツは、船長よりも先にサンパンで、海から上陸したあとだったことを報告したところであった。
 そこで、ボーイ長はどうしよう、という相談が水夫らと、四人の舵取《かじと》りの間に行なわれた。

     三二

 相談の結果、病院が夜では都合が悪くはないかという動議のあったため、なるほど、それは昼の方がいいだろう。では明日《あす》午前中に、行くことにして、ついでといっては済まないが、この事件の最初からの関係者として藤原君と、波田君とに、病院までついて行って、もらおうと言うことになった。金は五人の水夫と、四人の舵取りと、一人《ひとり》の大工とで二円ずつ出せば、二十円あるから、それで、もし必要ならば入院させて、「とも」で入費を持たないというようなことであったら、おもてで持とう。その代わり、とものやつらは覚悟をするがいいや、というようなことになった。
 安井は、そのきたない、暗い、寒い寝箱の中で、その傷の疼痛《とうつう》のために、時々顔をしかめながら、一生懸命にことの成り行きを聞いていた。そして、藤原のそれほどの努力にもかかわらず、また、明日に延びたと聞いて、彼は心持ち持ち上げていた、その頭をまたぐったりと落としてしまった。今夜は病院へ行けるという、彼にとっては唯一の歓《よろこ》びが消えてしまったのであった。彼は、今までと「同じ」一夜をまた、この船室で苦しみ通さなければならないということに、まっ黒い絶望を感じたのであった。
 しかし、何ともならなかった、事情は彼も聞いていた通りであった、「とも」の人間にとっては、彼は、その生命でも一顧の価値なきものだということが、念入りに繰りかえされて聞かされたに過ぎないのであった。そして、彼は、自分の生命がほとんど、生まれ落ちてから、一顧の価値だもなく、それはちょうど産みつけられた蛆《うじ》が大きくなるように、大きくなったのである。いつでも、彼の生きていることは、ほかのだれかの生きていることと、そのパンの分配の時に、おそろしく窮屈な思いをしなかったことのなかった、彼の全生涯――わずか[#「わずか」は底本では「わずが」と誤記]十八年ではあるが、その中の確かに十四、五年を占める――を、その傷の疼痛と共に、彼に手きびしく思い知らせた。
 「いっそ、産まれなければよかった」と思われるほど、あるいは事実において、その人間を餓死か、自殺かに導くような、「いっそ、死んでしまった方がましだ」と痛切に感ぜざるを得ないような状態が、なぜ存在するのか? そして、それは永久に存在しなければならないものか?
 一方には「腹がすかない」という「病気」のために、薬を飲む階級があり、一方には「飯が食えない」という「健康」のために死ぬ階級があるということは、地球が円《まる》くできてることと同様に、何ともしようのないことであるか? それは時が、種を植えており、その種が生《は》えており、すでに実っているところもあるのだ。だが、傍路《わきみち》へはいってはならない。そんなことはあまりにわかり切ったことなのだ。それはやっぱり、飯の食えない、健康体の人たち、すなわち労働者たちが、命じられている仕事の一つなのだ。
 藤原は、ボーイ長の寝箱のそばに腰をおろして、今日《きょう》の顛末《てんまつ》を話した。種々とその成り行きを述べて、こういった。
 「労働階級は、君の場合のように、ハッキリ現われた場合だけ、資本制生産のために、その生命の危難に面するということを覚《さと》るのだが、それは実はもうおそすぎてるんだ。賃銀労働者であることが、すでに生命を搾取されていることなんだ。だから、工場法にだって、生命を失った場合に、その生命に対する支払い額のミニマムが決めてあるじゃないか、それが、労働力、いいかえれば、人間の生命力の搾取に、その基礎を置いてなっているものであるならば、それが、どんな形において生命が消耗されようと、ブルジョアジーにとって、驚くべき理由がないだろう。君の生命は、君にとって永久に大切であるが、ブルジョアジーにとっては、君の生命が搾取されうる間だけ、役に立ちうるというだけなんだ! 産業予備軍は無数だ! 僕らは今、一切残らず、そういった境遇の下にあるんだ。そして、お互いにかみつき合おうとしている。ばかな話だ! 僕らは、生きる道を採るのだ。君の、今の直接の生きる道が医者にかかることにあるように、労働者階級は、階級としての、生命の道へまっしぐらに進むべき時なんだ!」
 それは、ボーイ長へ話してるというよりも、彼がひとり言をいってる、と言った方が正当であったくらいだった。
 波田、西沢、小倉などはまだ上陸をせずに、一緒に、彼の話を聞いていた。
 水夫では、波田、コーターマスターでは小倉が、今夜の当番であった。
 波田、小倉、西沢、藤原と、四人の中で、酒を飲む[#「飲む」は底本では「飯む」と誤記]のは西沢だけであった、あとの三人は酒よりも甘いものであった。特に波田と来ては、前にもいったように、菓子のために「身を持ちくずす」ほどだったのだ。
 「みんなで、東洋軒へ行って、お茶でも飲みながら、話をしようか」と、藤原は、皆が自分を待っててくれたのが、――上陸を十分延ばすことが、どんなにつらいことかは、読者は船長の例で知っているはずだ――気の毒になって、皆を菓子屋へ誘った。
 「よかろう」波田は、懐中の三円――その月末には二割の利子で月給から天引きされるところの借金――をおさえながら叫んだ。
 皆はそろって出かけた。出がけに、波田は、ボーイ長に言った。
 「すぐ帰って来るよ。菓子を買って来るぜ、待ってたまえよ。そして、明日《あす》は、午前中に病院へ行くんだ! すぐ帰るからね」彼は三人のあとを追っかけて、桟橋へとタラップを、猿《さる》のように伝って飛んで降りた。
 西沢たち三人はタラップを降り切ったところで彼を待っていた。
 それは寒い夜であった。水夫たちは不完全な防寒具で、皆震え上がっていた。オーバーを持っていたのは藤原と小倉とだけであった。彼らは、どこかの古着屋で、それを買ったのだ。藤原のは上着の大き過ぎるくらいに小さかったし、小倉のは米一斗袋に三升詰めたくらいにダブダブしていた。
 彼らは馬蹄型《ばていがた[#「ばていがた」は底本では「ばていがい」と誤記]》の海岸を一列に並んで、黙々として歩いた。歯が痛かった。風は頬《ほほ》を透《とお》して、歯の神経をひどく刺激するのであった。水夫たちは、彼らが貧乏であるために、必要以上に苦しまねばならないことを思っていた。
 「メリヤスの新しいシャツが一枚あれば」波田は「どのくらい暖かいだろうなあ」と思いながら油と垢《あか》とでガワガワになったズボンのポケットの中で、拳固《げんこ》を力一杯で握り固めたり、延ばしたりした。
 西沢はオーバーがない代わりに、スェーターを着込んでいた。それは、「買いかぶった」綿製の物であった。「随分商人はひどいことをしやがる」もっとも、彼はそれに一円二十銭を夜店で出したということは、あまり吹聴《ふいちょう》はしない方が賢いと思っていた。
 こうしてめいめいがはなはだしく貧弱な防寒具の下《もと》に、はなはだしく寒い、寂しい、荒涼たる、一口にいえば、といっても、いいようのない、そうだ、それは「死」にいやでも応でも考えを押しつけねば置かない関係、すなわち、プロレタリア対寒冷! の、本能的の寂しさの中を、四人は、港の街《まち》のさびしい通りの、明るい二階で暖かいお茶と、お菓子とが待ってることを思って急いで行くのであった。
 左側は、駅から迂回《うかい》して来た鉄路のある山腹の切断面、それから高架線、それらが万寿のかかってる方へ並行していた。積まれた石炭の上には雪がすっかり塗り上げをしていた。ところどころに、人足《にんそく》の茶飲み
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