っとぼんやりの方がいいのに」などと、会体《えたい》の知れぬことを感じるのであった。だがしかし、必要もないのに、彼に、これほど長い間苦痛を、わざと見せつけることは、明らかに、船長の冷酷から来たことであった。
 船には、その船に対して、会社から、傷病費の予算が請求に応じて提供されてあるのだ。だがそれは、高級海員の家族の病気療養費、あるいは特別収入といった方が正当であった。そして、このための支出から、かくのごとき場合の負傷は、船長によって「節欲」せられるのであった。
 船における一切の事は、船長だけがトルコの回々《フイフイ》教の殿堂内における、サルタンと同様に知っているだけであった。より緊密でないことが高級海員に知られていた。そして、労働者たちは、自分たちに会社から支払うところの食糧費がいくらであるか、それすらも知らなかった。
 もし搾《しぼ》ろうとするならば、搾られる者が「何か」――それはきわめて詰まらぬことでいい、二と二とを加えると四となるということでも――知っているということは、それより悪いことを、搾るものが見つけるのが困難であろう。つまり何でも知らなきゃいいのだ。知ってると理屈が多くて困るのだ! かくておもての「ゴロツキ」どもは、完全に何も知らなかった。自分の手帳まで事務室に取り上げられてしまうのであった。そして、ついでに判も。かくて、彼らは、ゴロツキにされてしまうのであった。
 そこでは、何でもふんだくる者が紳士であることは、十八世紀の英国のゼントルマンとすこしも変わることはなかった。そして奪われるものは、いつでも、ゴロツキであるのだ! 全く奪われるものは、いつでも、ゴロツキであるのだ! 奪うものと奪われるものとの間、ゼントルマンとゴロツキとは絶えないのだ!
 「生存権すら主張ができない」ことは、どんなに、ボーイ長をいらだたせたことだろう。そこに人間の生命の疾患に対しての、病院がいくつも甍《いらか》を並べているのに、彼はそのまま、横浜からまた船で戻ってしまったのだ。そして、それは船長が自分の船のボーイ長がけがをしたことなどは、チーフメートから聞いたまま「忘れてしまった」ことが原因かもしれないのだ。またそんなものを病院なんぞに入れることはもちろん、そのけがが「なおらねばならない」必要を認めない、ことに起因するかもしれないのだ。そして、きっとそうなのだ。
 それは確かにそうあるべきだ。なぜかならばそれは「階級」と「身分」とが違うからであった。それはまたなぜかならば「階級」と「身分」とは人間と猿《さる》とをへだてるよりも、もっとひどく人間と人間をへだて、離したからだ。
 かくて、ボーイ長の負傷は、水夫らに何とはなしに、陰惨な印象を与え、白内障《そこひ》の目における障害のように、いくらふいてもふいてもとれなかった。そして、それはこのゴロツキどもを、布団《ふとん》に紛れ込んだ針のように、時々チクチクとつっ突いた。かつ針は、いつかはあまりの痛さに「ゴロツキ」どもを飛び上がらせずには置かないのであった。
 ボーイ長は、自分にとっては何よりも尊い自分の生命のために、相手は船長であれ何であれ、「今日《きょう》という今日は交渉しよう」と決心した。そしてそれは藤原に相談すべきであると思い決めた。

     二八

 一方水夫らは、ボイラー揚陸のために、ハッチの蓋《ふた》をとり、ビームをはずした。そして彼らは、マストの内部にとりつけてある足場を伝って、ダンブルの中へと降りて行った。それは厳重に荷造りがしてあった。水夫らは、それが航海中ゴロゴロあばれ出さないように、それをしっかり据え、方々から引っぱるための作業の困難で、とても面倒臭かったことを思いながら、それを取りはずすのだった。取りはずしは、取りつけから見ると、比較にならぬほど手軽に行った。
 クレインは今、室蘭駅の機関庫の見える方から、その怪物のような図体を、渋々とランチに引っぱられて、万寿丸を目がけて近づいて来るのであった。四角な浮き箱の上に、二十五トンの重さの物を引っぱり上げるだけの力と、骨組みとを持った鉄の腕と、ウインチが装置されてあるのだ、けし粒ほどの小蟻《こあり》が黄金虫《こがねむし》か何かを引っぱるように、小蒸汽はそれを曳《ひ》きなやみつつ、じりじりと近づいた。
 船の方では、いつでも、引き上げられるように、ボイラーはそのあらゆる拘束から釈放された。今はただ大きな腕が、自分をその牢獄《ろうごく》から引き出してくれるのを待つばかりだった。
 クレインは近づいた。そしてその偉大な腕を、ヌッと本船のハッチの上へ差し延べた。それから、ワイアロープがブラ下がって来た。そのロープの尖端《せんたん》には人間の腕まわりほどの太さの鉤《かぎ》がついていた。この鉤自体が一人《ひとり》ではとても動かないのであった。そこへ持って来て室蘭では、この種の荷役になれた仲仕がいなかった。その巨大な鉤が上からブラ下がって来て、下から何でもひっかかりさえすれば、引き上げようとしているのに、仲仕はただまごまごするだけであった。
 水夫たちも荷役に手伝った。が、何にしても足場は、ボイラーの円《まる》いペンキ塗りの上である。すべることこの上もないところへ、それを縛るワイアロープは、腕の太さほどであるのであった。まごつくとワイアに、はね飛ばされねばならぬ破目《はめ》になるのであった。おまけに鉤は一人で動かない、[#「動かない、」は筑摩版では「、」なし]やつであった。従って作業がはなはだしく困難であった。
 ところが、船長が、このボイラー揚陸に当てた時間は、きわめて短いのであった。それはチーフメーツも心得ていた。チーフだって正月は横浜でしたかったことはいうまでもないことだ。従って、これも、ボイラーを急いでいた。かくのごとく二重にボイラーは急がれていたが、仲仕は人数が少ない上に、横浜の仲仕ほどなれていなかった。なかなか仕事ははかどらなかった。チーフメーツはハッチに片足を載せて、
 「そのワイアを引っぱるんだ! ちがう! そっちからこっちへだ! ボースン、そのワイアをあれへかけて引っぱるんだ、そら、シャックルがはずれた! だめだ! ボースン! ばか! 違う! そらホックをかけて、ヒーボイ、チェッ、またはずれた。スライク、スライク!」彼はまっ赤《か》になってせり売りの商人のように怒鳴りまくった。
 彼のこの焦燥にもかかわらず、ボイラーはクレインからホックに、すこしも引っかかろうとしなかった。チーフメーツは、自分の声で、ホックをワイアに引っかけようとでもするように、だんだんその声を大きく張り上げた。そして、鉤の大きいのは、ボースンや水夫たちの責任ででもあるように、ボースンや水夫たちを口ぎたなくののしり始めた。
 紳士の番頭はその地金《じがね》を現わした。
 「大工、なぜすみへ行く、そのワイヤを抜くんだ! ボースン、何だ、まいまいつぶろ見たいに、グルグル回ってやがって、グルグル回ったって、ボイラーは上がりゃしないぞ、どこへ行くんだ、そら、ばか!」まるでボースンがばかであることをはやし立てているのであった。
 ボースンが、上から見るとただ、ボイラーのまわりをグルグル回るだけのように見えると同様に、チーフメーツはボースンの周囲をグルグル回りながら、ボースンがばかであることを、ハッキリ飲み込ませてしまったよりほかには、何もしなかった。
 ボースンはあわててしまった。どこから手を出していいか、わからなくなってしまったのだ。
 藤原はボイラーの上に上がって、鉤《かぎ》が当然引っかかるような状態になって来るのを待っていた。そして彼は、普段から、あまりに意気地《いくじ》のない、ボースンや大工が、チーフメーツに「くそみそ」にののしられているのに対して、なおさら腹を立てた。
 「ほんとに貴様らはばかだ! 奴隷《どれい》でもそれほど卑屈じゃないぞ! 水夫らからは月二割も搾《しぼ》りやがって、豚め! チーフメーツの野郎、なにかおれにいって見ろ! 思い知らしてやるから、高利貸の丁稚《でっち》め!」
 彼は、それこそ、抜けかけたボールトのように、ボイラーの上へ突っ立っていた。
 ホックはうまく彼と、向かい合って立ってる波田との間へおりた。波田は腕ほどの太さの、ワイアの鉤穴を持ち上げた。それは一秒間とは持ち続けることのできない重さであった。藤原は、ホックを、彼のからだの重みをもたせて、波田の持っている鉤穴の方へ揺るがした。それはちょうどそこへ行ったが、少しおり足らなかった。
 だめだった! はまらなかった。
 「何だ、ボケナス、どうしてはめないんだ! ばか! よせッ!」チーフメーツは頭から、ストキへ罵声《ばせい》を吐きかけた。
 「波田君、降りたまえ! チーフメーツがよせという命令だ」そのまま藤原は、ボイラーからワイアを伝って飛びおりた。波田も続いた。
 「どうした、ストキ、どこへ行くんだ! 畜生!」チーフメーツはまるで狂っていた。
 藤原は下へ降りて、西沢をデッキから見えないところへ呼んだ。
 「君、仕事があれでやれるかい、ばかとか、よせとか、怒鳴り散らされて? え? よそうじゃないか、おれたちあ、船を桟橋まで着けないで下船しちゃおう、ばかばかしいや! 奴隷じゃねえや」藤原はジロリとボースンをにらんだ。
 「よせ! よせ! 全く、こんなボロ船いつだっておりるぜ」西沢も賛成した。
 「ストライクか、それや、ぜひやらにゃならないこった」波田も賛成であった。
 チーフメーツはデッキの上で、餅《もち》をのどにつめでもしたように、あわててしまった。
 ボースンは下で癪《しゃく》を起こしそうに青くなった。そして、ストキのところへ飛んで行った。
 「ストキ、どうしたんだね、何か腹の立つことでもあったのかね」ボースンはまるでチーフメーツがも一人《ひとり》できた、といったようにオズオズしながらきいた。
 「ボースンはすこしもおこっていないようだね。おれたちゃ、チーフメーツから、仕事をやめろと命令されたから、今やめたまでの話さ。そして、荷役の加勢はもうよそう、ということに決めたんだ。陸から、そのために来た仲仕があるからね。それに、仲仕の前で、ああがなられちゃ仕事もできないしね」藤原は答えた。
 「そんなことをいわないで、頼む、あとで何とでも話をつけるから、気を直してやってくれ、わしなんぞはどうだ、まるで畜生だが、頼む、ナ、ストキ、やってくれ」ボースンは自分が畜生のようにいわれることを知ってはいたのだ。だが、ボースン対チーフメーツの関係と、水夫対チーフメーツとの関係はまるで違っていた。
 前者には、高利貸とその手代という関係があり、後者は、高利貸対労働者という関係であった。
 「やるもやらぬもねえじゃないか、いいつけを守って、やめてるだけのもんじゃないか、ボースンもさっきから大分やめろといわれてるようだが、よさないとあとでまたうるさいだろうぜ」
 全くボースンにとっては、どちらにしても、あとでうるさい、面倒な事になったものであった。
 ボースンは、ストキから、西沢、西沢から、波田へ、その禿《は》げた頭をつるつるなでながら、一生懸命で、仕事をしてくれるように頼んだ。
 デッキでは、チーフメーツは青くなってしまった。彼は様子が悪いことを見てとった。しかし、どうにもならなかった。クレインの方では、チーフメーツの合図一つで、いつでも巻き上げようと、腕をたくし上げて待ってるのであった。デッキの上に、チーフメーツの怒鳴るために、人のことながらウロウロしていた仲仕たちは、にわかにボイラーの上から、水夫たちがおりたので、ぼんやりしてしまった。

     二九

 チーフメーツはデッキから、「ボースン!」と怒鳴った。
 ボースンは、いよいよあわてて、いよいよ急にその禿《は》げ頭をなでて、頼むのであった。「ソラ怒鳴ってる! 後生だからこのボイラーだけ上げてくれ。そのあとでいくらでも話はつくじゃないか、ホラ、またわめいた。頼む、ストキ、西沢、な、波田頼む」
 彼はこんなことをしゃべり
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