罵倒《ばとう》し、そして恥ずかしい目にからかった。
 彼女は、それでも一緒になって、キャッキャッとはしゃぎながら、自分の商売の菓子箱のくつがえるのも忘れて、抵抗したりふざけたりするのだった。
 彼らは、薄暗いデッキの上を、小犬のようにころがり回ってふざけていた。
 彼女が菓子のほかに、彼女の肉をも売るということを、波田は耳にしたことがあったが、それは想像するだけでも不可能のように思えた。彼女は女性として男性に持たせうる、どんな魅力もないように見えた。きたない男よりも醜い彼女であった。
 だのに、彼女は、やはり、うわさのように菓子以外のものも、提供することがズッとあとになって波田にもわかった。それはボースンの部屋《へや》であった。
 これは、蜘蛛《くも》と蜘蛛とが、一つの瓶《びん》の中で互いに食い殺し合うのによく似てはいないだろうか。
 だが、その日は、それらのことは一切起こらなかった。彼女の菓子は、食事の済んだ水夫らによって一つ二つ摘ままれた。
 ボースンと大工とは、彼女を、波田の寝箱の中へ押し倒すことだけは、形式的に忘れなかった。波田の寝箱の隣では、負傷のために、弱り、やせたボーイ長が、まだうめいているのであった。
 波田は、ボーイ長に、朝鮮|飴《あめ》を二本買ってやった。ボーイ長は涙を流して喜んだ。
 疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛にみたされているのだ。人間がそれほどであることは何のためか、だれのためか、なぜそれほどに人間は苦しまねばならないのか、それはここで論ずべきことじゃない。
 おもしろいことは、この沖売ろうの娘は、おもてのコックと後になって、――四年もこれの書かれた後――二週間だけ一緒になって世帯を持った。二週間の後彼女はコックのために酌婦に売り飛ばされて、夕張《ゆうばり》炭田に行き、コックは世帯道具を売って、ある寡婦《やもめ》の家へ入り婿となって、彼自身沖売ろうになり、日用品や、菓子などを舟に積んで、本船へ持って来るようになったことだ、が、これはズッと後の事だ。
 水夫たちの食事が終わると、ボースンは、チーフメーツのところへ仕事の順序をききに行った。
 チーフメーツは、クレインが来るから、それまでのあいだに、ボイラーの方を用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの蓋《ふた》をとるぞ」
 そこで水夫らはデッキへと出て行った。

     二七

 おもてはストキから、ボースン、大工まで、全部出て行ったので、あとは傷を負って、むなしく一週間余りを暗室――それはほとんど暗室であった――の、寝箱の中でもだえ苦しんだ、ボーイ長の安井と、おもての通い船のおやじと、それから、沖売ろうのその娘とだけになった。
 沖売ろうの娘は、波田の寝箱の縁へ腰かけていた。サンパンの船頭は、ストーヴの前へ腰をおろして、皆黙々としていた。
 おもての、デッキでは、ビームがデッキへ打《ぶ》っ突かる音や、ウインチの回る音などで、まるで船全体が太鼓ででもあるように響きわたった。
 ボーイ長は、自分では大して自由にならないからだを持ち扱って退屈し切っていた。
 「ねえさん、わしに少し菓子をくれないか」ボーイ長は労《つか》れ切った声でささやくようにいった。
 「アア、びっくらしたよう。だれかおるだがよ、ここに」と彼女は飛び上がって、ボーイ長の暗室をのぞいた。そこにはボーイ長が確かに寝ているのであった。
 「あ、見習いさんでねえか、びっくりしただがよ」彼女は菓子箱を持って来て、ボーイ長の前へひろげて見せた。
 ボーイ長はそれを三十銭買った。そうして、うまそうに、むさぼり食べるのであった。
 「船頭さん! おれ今日《きょう》陸へ上がりたいが連れてっておくれよ」ボーイ長は船頭へ声をかけた。
 「ああ、いいとも、お女郎買いかい?」船頭はすばらしく大きいからだの、気のいい五十格好のじいさんだった。
 「うんにゃ。わしゃけがしたので、病院へ行くんだ」彼は今度こそ病院へ行けると思った。
 ボーイ長は思うのであった。「わしのけがをしたということは、もうだれも彼もみな忘れてしまっているのだろう。わしのけがをしたことは、全く他の人たちにとっては些細《ささい》なことなんだろう。だが、それやあまり不人情だろうと思われる。ことに、私の足は膿《う》んでしまって、痛くてたまらないんだ。わしは今日は、何としても船長さんに願って、病院へ入院させてもらわにゃならん。私のからだは、私が大切にしないでだれが大切にしてくれ手があろうか、私は船頭さんに病院まで負《おぶ》ってってもらおう。私はもう、何から何まで自分でやらなけれやだめだと知ったんだ」
 「船頭さん、室蘭にいい病院があるの?」ボーイ長はたずねた。
 「ああ、いい病院があるよ、室蘭病院てのが、山の手の高いところにあるよ」
 「そこまで、波止場から、どのくらいの道程《みちのり》があるの」
 「そうさなあ、十二、三町ぐらいなもんだろうなあ」
 それではとても一人《ひとり》の力で負《おぶ》ってなんぞ行けない。といって、ここでは橇《そり》ででもなければとてもだめだが、それもちょっとあるまいし、もし船長が身を入れてくれないと、今度こそは、自分は航海中に死なねばならないだろう。
 「市立病院かい、それは?」ボーイ長はたずねた。
 「市立じゃないけれど、公立だよ」船頭さんは答えた。「だけど、どうしてまたけがなどしたのかい」ときいた。
 「ほらこの前の航海ね。室蘭を出帆する日からしてえらい暴化《しけ》だったろう。あの航海に、舵機《だき》の鎖とカバーの間に食い込まれたんだよ」ボーイ長はあの時の様子を、ここで初めて語り始めた。
 「その日、私はともの倉庫にキャベツを出しに行ったんだよ。おもてのおやじが、とって来いというからね。で、キャベツを三つ笊《ざる》へ入れて、コック部屋《べや》の方へデッキを歩いてると、船が急に傾いたんで、左の足をウンと踏んばったんだよ。それがねちょうど都合悪くデッキが凍ってたもんだからすべって、つい鎖の方まではいってしまったんだよ。その時に舵機ががらがらと動いたもんだから、私ゃ鎖に食い込まれてしまって、カバーの中へからだを半分入れたらしいんだよ。そしてうつむけに引きずられたもんだから、胸をひどくデッキへたたきつけたらしいんだよ。わしは、ボーッとして気を失ってたから、足を食い込まれて、ひどくやられたことだけは知っていたんだけれど、こんなに胸や手やなどが痛むとは、助けられてからでも思わなかったんだよ。だけど、足はもうすっかりなおっても、ビッコを引かなけれや歩けないだろうと思うと、どうしていいかわからなくなるよ。おらあ、からだよりほかにもとでがねえからなあ、びっこをひくようになっちゃ、車も曳《ひ》けないからねえ、そうかって学問をする学資はないしね、家にゃまだ子供が八人もいて、小作のおやじはおふくろと一緒に、それこそまっ黒になって働いても、どうしてもやって行けねえで、小さな子まで子守奉公《こもりぼうこう》に出してあるんだよ。だからおれ、少しでもかせいで家に送ろうと思って、収入がいいという話を聞いたから、船に乗ったらこんな始末だろう。今後どうしてやって行くかまるでわからなくなってしまったよ。こんな時はいくら貧乏してもやっぱり、とうさんやかあさんがいると、気強いけれどなあ」と語って彼はホロリとした。
 労働力を売って生活するこの青年も、今その売ろうとする労働力が、大きな障害を与えられたことについては、どこかはっきりしない憤懣《ふんまん》を心の底に感ずるのであった。彼は、負傷後、イヒチオールを二、三回塗布され、足のガーゼを二、三度自分で取り換えただけであった。彼は傷の疼痛《とうつう》のために、非常にやせてしまった。彼はそのいたさに、彼の神経を極度に疲労させた。
 水夫たちが、仕事に出て行って、おもてにだれもいなくなると、彼は、今までためていた苦痛の叫びをあげるのであった。彼は、出任せに何でも叫んだ。そして自分の声に一生懸命聞き入った。彼の足の痛みは負傷後五、六時間を経て、はなはだしくなって来た。彼は、そのぬれた麩《ふ》のように力なく疲れたからだを、寝箱の中から危うくデッキへ落ちそうにまでもだえ狂った。彼は狂人のように叫んだ。そして、それは、彼自身でも、疼痛に対しては、非常にハッキリした意識を持っていたが、あまりに、そちらの方へのみあらゆる神経を集めたので、自分のもだえや叫喚には、ボンヤリしているのだった。
 水夫らは帰って来て、この苦悶《くもん》のさまを見ると「あまりあばれると、かえって傷が悪くなるから、じっと我慢しておれ」と、慰めるよりほかに道がなかった。水夫たちはボーイ長の負傷に対して、非常な嫌悪《けんお》の念を一様に感じていた。それは、彼がけがをしたのが、彼の過失だからというのではなかった。また、負傷したのが彼だからというのでもなかった。それは、ボーイ長が自分の負傷について、神経を全く疲労させ、身をのろい世をのろい、ついには絶望的に自分の足までものろうような、それと全く同じ感情が、水夫らにあったからであった。水夫らは、それを意識するとしないとにかかわらず、そこに、泣きわめき、狂い叫び、のた打ち回る自分自身の運命を、朝も夜も、食事にも眠りにも、焼けた鏝《こて》でも当てられるように、ジリジリと感じないではいられなかったからである。それから逃《のが》れる術《すべ》はなかったのである。
 水夫らは、自分の負傷のように、ボーイ長の負傷によって陰気にされていた。そして自分の負傷のように、いらいらさせられた。彼らは、それから逃れようとして、あせっていた。冷淡な、無関心な態度は、彼らが鈍らされた神経を持っていることと、も一つは「なれている」ことと、今一つは、その自分自身の運命を、あまりにハッキリ見せつけられることから、免れようとする心から出たことであった。
 波田は、石油|罐《かん》の二つに切ったので、便器をこしらえて、彼と、ボーイ長の寝箱とが※[#「※」は「L」を180度回転させた形、142−9]《かぎ》形をなしているすみへ置いてやった。
 安井は、だれも見えなくなると、その便器へ用を足した。その時の彼の努力は全くおびただしいものであった。彼は、用を達《た》したあとは、疲労と疼痛《とうつう》とで失心したような状態に陥るのであった。
 彼は、一切のことが、二度目であるというような幻覚にとらわれるのであった。それはちょうど、濁った方解石を透《とお》して物を見るように、一切がボンヤリして二重に見えるのであった。彼は、ズッと遠い以前からの歴史も、また、たった今何か考えた刹那的《せつなてき》な考えも、二度目であるように思った。その一度は、どこで経験し、どこで考えたかということを、彼は考えさかのぼるのであった。そうして、そこには、彼の以前の生活があった。ひもじい、寒い小作人の子としての絶え間なき窮乏の生活が、それも二重の形をもって展開されるのであった。小学校時代の暑中休暇のことが、彼の今の負傷して寝ている状態と、ゴッチャになってしまったりするのだった。「ちょうどおれは二度目だ」と彼はぼんやりけがのことを考えているのであった。「おれはあの時、ほかのだれもが休んでいるのにおれだけは、父《ちゃ》んと二人《ふたり》で田の草をとりに出かけたっけ。休まねばならぬ時に、おれは、煮えたぎる田の水の中で草とりをしたっけ。おれは休む時を持って生まれなかった。だが、あの時おれはけがをしたっけ。そして休んだっけ」それから、彼の哀れな、疲れ切った意識は、彼を暑中休暇の田の草とりから、彼を厳寒の万寿丸へ引き戻してしまった。そして彼はまたうめきもだえ狂わねばならなかった。
 彼はその疼痛の絶頂においては、感ずるのであった。
 「こんな苦痛をハッキリ味わわねばならないってのは、何て惨酷なことだろう。それよりも、もっとひどい苦痛を、も
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