おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。
 そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、安井《やすい》――水夫見習い――は、その全半身にただ気やすめだけのイヒチオールを塗布された。それは義務を果たすための一つの対象にすぎなかった。
 安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。
 彼は、からだの傷《いた》みと共に、堪《た》え得ぬ渇と飢えとに迫られていたのだった。

     六

 安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、今日《きょう》は、波田《はだ》が引き受けた。
 「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。
 「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答
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