ありやしないよ。だから医者へ行くとか、お前の家へ連れて行くとか、そんな風な大切なことを訊いてるんだよ」
 女はそれに対してこう答えた。
「そりゃ病院の特等室か、どこかの海岸の別荘の方がいいに決ってるわ」
「だからさ。それがここを抜け出せないから……」
「オイ! 此女は全裸《まっぱだか》だぜ。え、オイ、そして肺病がもう迚《とて》も悪いんだぜ。僅《わず》か二|分《ぶ》やそこらの金でそういつまで楽しむって訳にゃ行かねえぜ」
 いつの間にか蛞蝓《なめくじ》の仲間は、私の側へ来て蔭のように立っていて、こう私の耳へ囁《ささや》いた。
「貴様たちが丸裸にしたんだろう。此の犬野郎!」
 私は叫びながら飛びついた。
「待て」とその男は呻《うめ》くように云って、私の両手を握った。私はその手を振り切って、奴《やつ》の横《よこ》っ面《つら》を殴《なぐ》った。だが私の手が奴の横っ面へ届かない先に私の耳がガーンと鳴った、私はヨロヨロした。
「ヨシ、ごろつき奴《め》、死ぬまでやってやる」私はこう怒鳴ると共に、今度は固めた拳骨で体ごと奴の鼻っ柱を下から上へ向って、小突《こづ》[#底本では「《こず》」と誤植]き上げた。私は同時に頭をやられたが、然し今度は私の襲撃が成功した。相手は鼻血をタラタラ垂らしてそこへうずくまってしまった。
 私は洗ったように汗まみれになった。そして息切れがした。けれども事件がここまで進展して来た以上、後の二人の来ない中に女を抱いてでも逃れるより外《ほか》に仕様《しよう》がなかった。
「サア、早く遁《に》げよう! そして病院へ行かなけりゃ」私は彼女に云った。
「小僧さん、お前は馬鹿だね。その人を殺したんじゃあるまいね。その人は外の二三人の人と一緒に私を今まで養って呉れたんだよ、困ったわね」
 彼女は二人の闘争に興奮して、眼に涙さえ泛《うか》べていた。
 私は何が何だか分らなかった。
「何殺すもんか、だが何だって? 此男がお前を今まで養ったんだって」
「そうだよ。長いこと私を養って呉れたんだよ」
「お前の肉の代償にか、馬鹿な!」
「小僧さん。此人たちは私を汚《けが》しはしなかったよ。お前さんも、も少し年をとると分って来るんだよ」
 私はヒーローから、一度に道化役者に落ちぶれてしまった。此哀れむべき婦人を最後の一滴まで搾取した、三人のごろつき共は、女と共にすっかり謎《なぞ》になってしまった。
 一体こいつ等はどんな星の下に生れて、どんな廻《めぐ》り合せになっているのだ。だが、私は此事実を一人で自分の好きなように勝手に作り上げてしまっていたのだろうか。
 倒れていた男はのろのろと起き上った。
「青二才|奴《め》! よくもやりやがったな。サア今度は覚悟を決めて来い」
「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩《けんか》する気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」
「何だ! 思い違いだと。糞面白《くそおもしろ》くもねえ。何を思い違えたんだい」
「お前等三人は俺を威《おど》かしてここへ連れて来ただろう。そしてこんな女を俺に見せただろう。お前たちは此女を玩具《おもちゃ》にした挙句《あげく》、未《ま》だこの女から搾《しぼ》ろうとしてるんだと思ったんだ。死ぬが死ぬまで搾る太い奴等だと思ったんだ」
「まあいいや。それは思い違いと言うもんだ」と、その男は風船玉の萎《しぼ》む時のように、張りを弛《ゆる》めた。
「だが、何だってお前たちは、この女を素裸《すっぱだか》でこんな所に転がしとくんだい。それに又何だって見世物になんぞするんだい」と云い度《た》かった。奴等は女の云う所に依れば、悪いんじゃないんだが、それにしてもこんな事は明《あきらか》に必要以上のことだ。
 ――こいつ等は一体いつまでこんなことを続けるんだろう――と私は思った。
 私はいくらか自省する余裕が出来て来た。すると非常に熱さを感じ始めた。吐く息が、そのまま固まりになってすぐ次の息に吸い込まれるような、胸の悪い蒸《む》し暑さであった。嘔吐物《おうとぶつ》の臭気と、癌腫《がんしゅ》らしい分泌物《ぶんぴぶつ》との臭気は相変らず鼻を衝《つ》いた。体がいやにだるくて堪えられなかった。私は今までの異常な出来事に心を使いすぎたのだろう。何だか口をきくのも、此上何やかを見聞きするのも憶却《おっくう》になって来た。どこにでも横になってグッスリ眠りたくなった。
「どれ、兎《と》に角《かく》、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」
 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々《いまいま》しく感じながら、立ち上った。
「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲《す》んでいるのかい」
 私は半分扉の外に出ながら振りかえって訊《き》いた。
「そうよ。ここがおいらの根城なんだからな」男が、ブッキラ棒に答えた。
 私はそのまま階段を降《くだ》って街へ出た。門の所で今出て来た所を振りかえって見た。階段はそこからは見えなかった。そこには、監獄の高い煉瓦塀《れんがべい》のような感じのする、倉庫が背を向けてる丈《だ》けであった。そんな所へ人の出入りがあろうなどと云うことは考えられない程、寂れ果て、頽廃《たいはい》し切って、見ただけで、人は黴《かび》の臭を感じさせられる位だつた。
 私は通りへ出ると、口笛を吹きながら、傍目《わきめ》も振らずに歩き出した。
 私はボーレンへ向いて歩きながら、一人で青くなったり赤くなったりした。

     五

 私はボーレンで金を借りた。そして又外人相手のバーで――外人より入れない淫売屋で――又飲んだ。
 夜の十二時過ぎ、私は公園を横切って歩いていた。アークライトが緑の茂みを打《ぶ》ち抜いて、複雑な模様を地上に織っていた。ビールの汗で、私は湿ったオブラートに包まれたようにベトベトしていた。
 私はとりとめもないことを旋風器のように考え飛ばしていた。
 ――俺は飢えてるんじゃないか。そして興奮したじゃないか、だが俺は打克《うちか》った。フン、立派なもんだ。民平、だが、俺は危くキャピタリスト見たよな考え方をしようとしていたよ。俺が何も此女をこんな風にした訳じゃないんだ。だからとな。だが俺は強かったんだ。だが弱かったんだ。ヘン、どっちだっていいや。兎《と》に角《かく》俺は成功しないぜ。鼻の先にブラ下った餌《えさ》を食わないようじゃな。俺は紳士じゃないじゃないか。紳士だってやるのに俺が遠慮するって法はねえぜ。待て、だが俺は遠慮深いので紳士になれねえのかも知れねえぜ。まあいいや。――
 私は又、例の場所へ吸いつけられた。それは同じ夜の真夜中であった。
 鉄のボートで出来た門は閉《しま》っていた。それは然し押せばすぐ開いた。私は階段を昇った。扉へ手をかけた。そして引いた。が開かなかった。畜生! 慌《あわ》てちゃった。こっちへ開いたら、俺は下の敷石へ突き落されちまうじゃないか。私は押した。少し開きかけたので力を緩めると、又元のように閉ってしまった。
「オヤッ」と私は思った。誰か張番してるんだな。
「オイ、俺だ。開けて呉れ」私は扉へ口をつけて小さい声で囁いた。けれども扉は開かれなかった。今度は力一杯押して見たが、ビクともしなかった。
「畜生! かけがねを入れやがった」私は唾《つば》を吐いて、そのまま階段を下りて門を出た。
 私の足が一足門の外へ出て、一足が内側に残っている時に私の肩を叩いたものがあった。私は飛び上った。
「ビックリしなくてもいいよ。俺だよ。どうだったい。面白かったかい。楽しめたかい」そこには蛞蝓《なめくじ》が立っていた。
「あの女がお前のために、ああなったんだったら、手前等は半死になるんだったんだ」
 私は熱くなってこう答えた。
「じゃあ何かい。あの女が誰のためにあんな目にあったのか知りたいのかい。知りたきゃ教えてやってもいいよ。そりゃ金持ちと云う奴さ。分ったかい」
 蛞蝓《なめくじ》はそう云って憐《あわ》れむような眼で私を見た。
「どうだい。も一度行かないか」
「今行ったが開かなかったのさ」
「そうだろう、俺が閂《かんぬき》を下《おろ》したからな」
「お前が! そしてお前はどこから出て来たんだ」
 私は驚いた。あの室には出入口は外には無い筈《はず》だった。
「驚くことはないさ。お前の下りた階段をお前の一つ後から一足ずつ降りて来たまでの話さ」
 此|蛞蝓野郎《なめくじやろう》、又何か計画してやがるわい。と私は考えた。幽霊じゃあるまいし、私の一足後ろを、いくらそうっと下りたところで、音のしない訳がないからだ。
 私はもう一度彼女を訪問する「必要」はなかった。私は一円だけ未《ま》だ残して持っていたが、その一円で再び彼女を「買う」と云うことは、私には出来ないことであった。だが、私は「たった五分間」彼女の見舞に行くのはいいだろうと考えた。何故《なぜ》だかも一度私は彼女に会い度《た》かった。
 私は階段を昇った。蛞蝓《なめくじ》は附いて来た。
 私は扉を押した。なるほど今度は訳なく開いた。一足|室《へや》の中に踏《ふ》み込むと、同時に、悪臭と、暑い重たい空気とが以前通りに立ちこめていた。
 どう云う訳だか分らないが、今度は此部屋の様子が全《まる》で変ってるであろうと、私は一人で固く決め込んでいたのだが、私の感じは当っていなかった。
 何もかも元の通りだった。ビール箱の蔭には女が寝ていたし、その外には私と、蛞蝓《なめくじ》と二人っ切りであった。
「さっきのお前の相棒はどこへ行ったい」
「皆家へ帰ったよ」
「何だ! 皆ここに棲《す》んでるってのは嘘《うそ》なのかい」
「そうすることもあるだろう」
「それじゃ、あの女とお前たちはどんな関係だ」遂々《とうとう》私は切り出した。
「あの女は俺達の友達だ」
「じゃあ何だって、友達を素っ裸にして、病人に薬もやらないで、おまけに未だ其上見ず知らずの男にあの女を玩具《おもちゃ》にさすんだ」
「俺達はそうしたい訳じゃないんだ、だがそうしなけれゃあの女は薬も飲めないし、卵も食えなくなるんだ」
「え、それじゃ女は薬を飲んでるのか、然し、おい、誤魔化《ごまか》しちゃいけねえぜ。薬を飲ませて裸にしといちゃ差引|零《ゼロ》じゃないか、卵を食べさせて男に蹂躙《じゅうりん》されりゃ、差引欠損になるじゃないか。そんな理窟《りくつ》に合わん法があるもんかい」
「それがどうにもならないんだ。病気なのはあの女ばかりじゃないんだ。皆が病気なんだ。そして皆が搾《しぼ》られた渣《かす》なんだ。俺達あみんな働きすぎたんだ。俺達あ食うために働いたんだが、その働きは大急ぎで自分の命を磨《す》り減《へら》しちゃったんだ。あの女は肺結核の子宮癌《しきゅうがん》で、俺は御覧の通りのヨロケさ」
「だから此女に淫売をさせて、お前達が皆で食ってるって云うのか」
「此女に淫売をさせはしないよ。そんなことを為《す》る奴もあるが、俺の方ではチャンと見張りしていて、そんな奴あ放《ほう》り出してしまうんだ。それにそう無暗《むやみ》に連れて来るって訳でもないんだ。俺は、お前が菜っ葉を着て、ブル達の間を全《まる》で大臣のような顔をして、恥しがりもしないで歩いていたから、附けて行ったのさ、誰にでも打《ぶ》っつかったら、それこさ一度で取っ捕まっちまわあな」
「お前はどう思う。俺たちが何故《なぜ》死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫《うじむし》見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼《そらだの》みが俺たちを引っ張っているんだよ」
 私は全《まる》っ切り誤解していたんだ。そして私は何と云う恥知らずだったろう。
 私はビール箱の衝立《ついたて》の向うへ行った。そこに彼女は以前のようにして臥《ね》ていた。
 今は彼女の体の上には浴衣《ゆかた》がかけてあった。彼女は眠ってるのだろう。眼を閉じていた。
 私は淫売婦の代りに殉教者を見た。
 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。
 私
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