。そして坐りたくてならないのを強《し》いて、ガタガタ震える足で突っ張った。眼が益々闇に馴れて来たので、蔽《おお》いからはみ出しているのが、むき出しの人間の下半身だと云うことが分ったんだ。そしてそれは六神丸の原料を控除した不用な部分なんだ!
 私は、そこで自暴自棄な力が湧《わ》いて来た。私を連れて来た男をやっつける義務を感じて来た。それが義務であるより以上に必要止むべからざることになって来た。私は上着のポケットの中で、ソーッとシーナイフを握って、傍に突っ立ってるならず者の様子を窺《うかが》った。奴《やつ》は矢っ張り私を見て居たが突然口を切った。
「あそこへ行って見な。そしてお前の好きなようにしたがいいや、俺はな、ここらで見張っているからな」このならず者はこう云い捨てて、階段を下りて行った。
 私はひどく酔っ払ったような気持だった。私の心臓は私よりも慌《あわ》てていた。ひどく殴《なぐ》りつけられた後のように、頭や、手足の関節が痛かった。
 私はそろそろ近づいた。一歩々々臭気が甚《はなはだ》しく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そして極《きわ》めて微《かす》かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸《しがい》が溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽喉《のど》へ向って逆流するような感じに捕われた。然し、
 然し今はもう総《すべ》てが目の前にあるのだ。
 そこには全く残酷《ざんこく》な画が描かれてあった。
 ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向《あおむ》きに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。そして吐息は彼女の肩から各々が最後の一滴であるように、搾《しぼ》り出されるのであった。
 彼女の肩の辺から、枕の方へかけて、未《ま》だ彼女がいくらか、物を食べられる時に嘔吐《おうと》したらしい汚物が、黒い血痕《けっこん》と共にグチャグチャに散ばっていた。髪毛がそれで固められていた。それに彼女の(十二字不明)がねばりついていた。そして、頭部の方からは酸敗《さんぱい》した悪臭を放っていたし、肢部からは、癌腫《がんしゅ》の持つ特有の悪臭が放散されていた。こんな異様な臭気の中で人間の肺が耐え得るかどうか、と危ぶまれるほどであった。彼女は眼をパッチリと見開いていた。そして、その瞳《ひとみ》は私を見ているようだった。が、それは多分何物をも見てはいなかっただろう。勿論《もちろん》、彼女は、私が、彼女の全裸の前に突っ立っていることも知らなかったらしい。私は婦人の足下《あしもと》の方に立って、此場の情景に見惚《みと》れていた。私は立ち尽したまま、いつまでも交《まじわ》ることのない、併行《へいこう》した考えで頭の中が一杯になっていた。
 哀れな人間がここにいる。
 哀れな女がそこにいる。
 私の眼は据《す》えつけられた二つのプロジェクターのように、その死体に投げつけられて、動かなかった。それは死体と云った方が相応《ふさわ》しいのだ。
 私は白状する。実に苦しいことだが白状する。――若《も》しこの横われるものが、全裸の女でなくて全裸の男だったら、私はそんなにも長く此処に留っていたかどうか、そんなにも心の激動を感じたかどうか――
 私は何ともかとも云いようのない心持ちで興奮のてっぺんにあった。私は此有様を、「若い者が楽しむこと」として「二|分《ぶ》」出して買って見ているのだ。そして「お前の好きなようにしたがいいや」と、あの男は席を外《はず》したんだ。
 無論、此女に抵抗力がある筈《はず》がない。娼妓《しょうぎ》は法律的に抵抗力を奪われているが、此場合は生理的に奪われているのだ。それに此女だって性慾の満足のためには、屍姦《しかん》よりはいいのだ。何と云っても未《ま》だ体温を保っているんだからな。それに一番困ったことには、私が船員で、若いと来てるもんだから、いつでもグーグー喉《のど》を鳴らしてるってことだ。だから私は「好きなように」することが出来るんだ。それに又、今まで私と同じようにここに連れて来られた(若い男)は、一人や二人じゃなかっただろう。それが一一(四字不明)どうかは分らないが、皆が皆|辟易《へきえき》したとも云い切れまい。いや兎角《とか》く此道ではブレーキが利きにくいものだ。
 だが、私は同時に、これと併行《へいこう》した外の考え方もしていた。
 彼女は熱い鉄板の上に転がった蝋燭《ろうそく》のように瘠《や》せていた。未だ年にすれば沢山《たくさん》ある筈《はず》の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒《しゅろぼうき》のようだった。字義通りに彼女は瘠せ衰えて、棒のように見えた。
 幼い時から、あらゆる人生の惨苦《さんく》と戦って来た一人の女性が、労働力の最後の残渣《ざんさい》まで売り尽して、愈々《いよいよ》最後に売るべからざる貞操まで売って食いつないで来たのだろう。
 彼女は、人を生かすために、人を殺さねば出来ない六神丸のように、又一人も残らずのプロレタリアがそうであるように、自分の胃の腑《ふ》を膨《ふく》らすために、腕や生殖器や神経までも噛《か》み取ったのだ。生きるために自滅してしまったんだ。外に方法がないんだ。
 彼女もきっとこんなことを考えたことがあるだろう。
「アア私は働きたい。けれども私を使って呉れる人はない。私は工場で余り乾いた空気と、高い温度と綿屑とを吸い込んだから肺病になったんだ。肺病になって働けなくなったから追い出されたんだ。だけど使って呉れる所はない。私が働かなけりゃ年とったお母さんも私と一緒に生きては行けないんだのに」そこで彼女は数日間仕事を求めて、街を、工場から工場へと彷徨《さまよ》うたのだろう。それでも彼女は仕事がなかったんだろう。「私は操《みさお》を売ろう」そこで彼女は、生命力の最後の一滴を涸《か》らしてしまったんではあるまいか。そしてそこでも愈々《いよいよ》働けなくなったんだ。で、遂々《とうとう》ここへこんな風にしてもう生きる希望さえも捨てて、死を待ってるんだろう。

    三

 私は彼女が未《ま》だ口が利けるだろうか、どうだろうかが知りたくなった。恥しい話だが、私は、「お前さんは未だ生きていたいかい」と聞いて見る慾望をどうにも抑えきれなくなった。云いかえれば人間はこんな状態になった時、一体どんな考を持つもんだろう、と云うことが知りたかったんだ。
 私は思い切って、女の方へズッと近寄ってその足下の方へしゃがんだ。その間も絶えず彼女の目と体とから私は目を離さなかった。と、彼女の眼も矢っ張り私の動くのに連れて動いた。私は驚いた。そして馬鹿々々しいことだが真赤になった。私は一応考えた上、彼女の眼が私の動作に連れて動いたのは、ただ私がそう感じた丈《だ》けなんだろう、と思って、よく医師が臨終の人にするように彼女の眼の上で私は手を振って見た。
 彼女は瞬《またたき》をした。彼女は見ていたのだ。そして呼吸も可成《かな》り整っているのだった。
 私は彼女の足下近くへ、急に体から力が抜け出したように感じたので、しゃがんだ。
「あまりひどいことをしないでね」と女はものを言った。その声は力なく、途切《とぎ》れ途切れではあったが、臨終の声と云うほどでもなかった。彼女の眼は「何でもいいからそうっとしといて頂戴《ちょうだい》ね」と言ってるようだった。
 私は義憤を感じた。こんな状態の女を搾取材料にしている三人の蛞蝓《なめくじ》共を、「叩《たた》き壊してやろう」と決心した。
「誰かがひどくしたのかね。誰かに苛《いじ》められたの」私は入口の方をチョッと見やりながら訊《き》いた。
 もう戸外はすっかり真っ暗になってしまった。此だだっ広い押しつぶしたような室《へや》は、いぶったランプのホヤのようだった。
「いつ頃から君はここで、こんな風にしているの」私は努《つと》めて、平然としようと骨折りながら訊《き》いた。彼女は今私が足下の方に踞《うずくま》ったので、私の方を見ることを止めて上の方に眼を向けていた。
 私は、私の眼の行方《ゆくえ》を彼女に見られることを非常に怖《おそ》れた。私は実際、正直な所其時、英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年であった。全く身も心もそれに相違なかった。だから、私は彼女に、私が全《まる》で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故《なぜ》私は征服することが出来なかっただろうか。
 若《も》し彼女が私の眼を見ようものなら、「この人もやっぱり外の男と同じだわ」と思うに違いないだろう。そうすれば、今の私のヒロイックな、人道的な行為と理性とは、一度に脆《もろ》く切って落されるだろう、私は恐れた。恥じた。
 ――俺はこの女に対して性慾的などんな些細《ささい》な興奮だって惹《ひ》き起されていないんだ。そんな事を考える丈《だ》けでも間違ってるんだ。それは見てる。見てるには見てるが、それが何だ。――私は自分で自分に言い訳をしていた。
 彼女が女性である以上、私が衝動を受けることは勿論《もちろん》あり得る。だが、それはこんな場合であってはならない。この女は骨と皮だけになっている。そして永久に休息しようとしている。この哀れな私の同胞に対して、今まで此室に入って来た者共が、どんな残忍なことをしたか、どんな陋劣《ろうれつ》な恥ずべき行《おこない》をしたか、それを聞こうとした。そしてそれ等の振舞が呪《のろ》わるべきであることを語って、私は自分の善良なる性質を示して彼女に誇りたかった。
 彼女はやがて小さな声で答えた。
「私から何か種々《いろいろ》の事が聞きたいの? 私は今話すのが苦しいんだけれど、もしあんたが外の事をしないのなら、少し位話して上げてもいいわ」
 私は真赤になった。畜生! 奴は根こそぎ俺を見抜いてしまやがった。再び私の体中を熱い戦慄《せんりつ》が駈け抜けた。
 彼女に話させて私は一体どんなことを知りたかったんだろう。もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しく喘《あえ》ぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。
 だが、私は彼女を救い出そうと決心した。
 然し救うと云うことが、出来るだろうか? 人を救うためには(四字不明)が唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々《いよいよ》壊れることになるのではないか。
 だが、何でもかでも、私は遂々《とうとう》女から、十言|許《ばか》り聞くような運命になった。

    四

 先刻《さっき》私を案内して来た男が入口の処へ静《しずか》に、影のように現れた。そして手真似で、もう時間だぜ、と云った。
 私は慌《あわ》てた。男が私の話を聞くことの出来る距離へ近づいたら、もう私は彼女の運命に少しでも役に立つような働が出来なくなるであろう。
「僕は君の頼みはどんなことでも為《し》よう。君の今一番して欲しいことは何だい」と私は訊《き》いた。
「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」
 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。
 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手から遁《に》げられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁《わら》だと思っていた。
 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。
 世の中の総《すべ》てを呪《のろ》ってるんだ。皆で寄ってたかって彼女を今日の深淵《しんえん》に追い込んでしまったんだ。だから僕にも信頼しないんだ。こんな絶望があるだろうか。
「だけど、このまま、そんな事をしていれば、君の命は
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