淫賣婦
葉山嘉樹

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)若《も》し私が

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)憎ったらしい程|図々《ずうずう》しく
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此作は、名古屋刑務所長、佐藤乙二氏の、好意によって産れ得たことを附記す。
――一九二三、七、六――

    一

 若《も》し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、一体どっちなんだい?」と訊《たず》ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私は自分でも此問題、此事件を、十年の間と云うもの、或時はフト「俺も怖《おそ》ろしいことの体験者だなあ」と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云う丈《だ》けのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられる。然しだ、私は言い訳をするんじゃないが、世の中には迚《とて》も筆では書けないような不思議なことが、筆で書けることよりも、余っ程多いもんだ。たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れたまま、今までにどの位死んだことだろう。現に私だって今ここに書こうとすることよりも百倍も不思議な、あり得べからざる「事」に数多く出会っている。そしてその事等の方が遙《はるか》に面白くもあるし、又「何か」を含んでいるんだが、どうも、いくら踏ん張ってもそれが書けないんだ。検閲が通らないだろうなどと云うことは、てんで問題にしないでいても自分で秘密にさえ書けないんだから仕方がない。
 だが下らない前置を長ったらしくやったものだ。

 私は未《ま》だ極道《ごくどう》な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。
 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許《ばか》りの所だった。船は、ドックに入っていた。
 私は大分飲んでいた。時は蒸し暑くて、埃《ほこり》っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。
 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場《はとば》の事だから、些《いささ》か恰好《かっこう》の異《ちが》った人間たちが、沢山《たくさん》、気取ってブラついていた。私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名《あだな》なんだが――それは失礼じゃないか、などと云うことはすっかり忘れて歩いていた。
 流石《さすが》は外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんなに私が自惚《うぬぼ》れて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内部のような散歩道を、私は一緒になって、悠然《ゆうぜん》と、続きの菜っ葉服を見て貰いたいためででもあるように、頭を上げて、手をポケットで、いや、お恥《はずか》しい話だ、私はブラブラ歩いて行った。
 ところで、此時私が、自分と云うものをハッキリ意識していたらば、ワザワザ私は道化《どうけ》役者になりやしない。私は確に「何か」考えてはいたらしいが、その考の題目となっていたものは、よし、その時私がハッと気がついて「俺はたった今まで、一体何を考えていたんだ」と考えて見ても、もう思い出せなかった程の、つまりは飛行中のプロぺラのような「速い思い」だったのだろう。だが、私はその時「ハッ」とも思わなかったらしい。
 客観的には憎ったらしい程|図々《ずうずう》しく、しっかりとした足どりで、歩いたらしい。しかも一つ処を幾度も幾度もサロンデッキを逍遙《しょうよう》する一等船客のように往復したらしい。
 電燈がついた。そして稍々《やや》暗くなった。
 一方が公園で、一方が南京町《ナンキンまち》になっている単線電車通りの丁字路の処まで私は来た。若し、ここで私をひどく驚かした者が無かったなら、私はそこで丁字路の角だったことなどには、勿論《もちろん》気がつかなかっただろう。処が、私の、今の今まで「此世の中で俺の相手になんぞなりそうな奴は、一人だっていやしないや」と云う私の観念を打ち破って、私を出し抜けに相手にする奴があった。「オイ、若けえの」と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打《ぶ》つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻《うめ》くように云った。
「ピー、カンカンか」
 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程見つめていた。その男は小さな、蛞蝓《なめくじ》のような顔をしていた。私はその男が何を私にしようとしているのか分らなかった。どう見たってそいつは女じゃないんだから。
「何だい」と私は急に怒鳴った。すると、私の声と同時に、給仕でも飛んで出て来るように、二人の男が飛んで出て来て私の両手を確《しっか》りと掴《つか》んだ。「相手は三人だな」と、何と云うことなしに私は考えた。――こいつあ少々面倒だわい。どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は俺の負けになるぞ、作戦計画を立ってからやれ、いいか民平!――私は据《す》えられたように立って考えていた。
「オイ、若えの、お前は若え者がするだけの楽しみを、二|分《ぶ》で買う気はねえかい」
 蛞蝓《なめくじ》は一足下りながら、そう云った。
「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩《けんか》なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」
「そりゃ分らねえ、分らねえ筈《はず》だ、未《ま》だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろうな」
 私はポケットからありったけの金を攫《つか》み出して見せた。
 もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭もあっただろう。
「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」
 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、すっかり捲き上げられた。
「どうだい、行くかい」蛞蝓《なめくじ》は訊《き》いた。
「見料《けんりょう》を払ったじゃねえか」と私は答えた。私の右腕を掴《つか》んでた男が、「こっちだ」と云いながら先へ立った。
 私は十分警戒した。こいつ等三人で、五十銭やそこらの見料で一体何を私に見せようとするんだろう。然も奴等は前払で取っているんだ、若《も》し私がお芽出度《めでた》く、ほんとに何かが見られるなどと思うんなら、目と目とから火花を見るかも知れない。私は蛞蝓《なめくじ》に会う前から、私の知らない間から、――こいつ等は俺を附けて来たんじゃないかな――
 だが、私は、用心するしないに拘《かかわ》らず、当然、支払っただけの金額に値するだけのものは見得ることになった。私の目から火も出なかった。二人は南京街の方へと入って行った。日本が外国と貿易を始めると直ぐ建てられたらしい、古い煉瓦建《れんがだて》の家が並んでいた。ホンコンやカルカッタ辺の支邦人街と同じ空気が此処にも溢《あふ》れていた。一体に、それは住居《すまい》だか倉庫だか分らないような建て方であった。二人は幾つかの角《かど》を曲った挙句《あげく》、十字路から一軒置いて――この一軒も人が住んでるんだか住んでいないんだか分らない家――の隣へ入った。方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀《くじゃく》のような恰好《かっこう》で散歩していた、先刻《さっき》の海岸通りの裏|辺《あた》りに当るように思えた。
 私たちの入った門は半分|丈《だ》けは錆《さ》びついてしまって、半分だけが、丁度《ちょうど》一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃《ごみ》が山のように積んであった。門の外から持ち込んだものだか、門内のどこからか持って来たものだか分らなかった。塵の下には、塵箱が壊れたまま、へしゃげて置かれてあった。が上の方は裸の埃《ほこり》であった。それに私は門を入る途端にフト感じたんだが、この門には、この門がその家の門であると云う、大切な相手の家がなかった。塵の積んである二坪ばかりの空地から、三本の坑道のような路地が走っていた。
 一本は真正面に、今一本は真左へ、どちらも表通りと裏通りとの関係の、裏路の役目を勤めているのであったが、今一つの道は、真右へ五間ばかり走って、それから四十五度の角度で、どこの表通りにも関《かかわ》りのない、金庫のような感じのする建物へ、こっそりと壁にくっついた蝙蝠《こうもり》のように、斜《ななめ》に密着していた。これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄《せんりつ》を感じた。
 私は予感があった。この歪《ゆが》んだ階段を昇ると、倉庫の中へ入る。入ったが最後どうしても出られないような装置になっていて、そして、そこは、支那を本場とする六神丸の製造工場になっている。てっきり私は六神丸の原料としてそこで生《い》き胆《ぎも》を取られるんだ。
 私はどこからか、その建物へ動力線が引き込まれてはいないかと、上を眺めた。多分死なない程度の電流をかけて置いて、ピクピクしてる生《い》き胆《ぎも》を取るんだろう。でないと出来上った六神丸の効《き》き目《め》が尠《すくな》いだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且《か》つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、却《かえ》って之を殺戮《さつりく》することによってのみ成り立ち得る。とするならば、「六神丸それ自体は一体何に似てるんだ」そして「何のためにそれが必要なんだ」それは恰《あたか》も今の社会組織そっくりじゃないか。ブルジョアの生きるために、プロレタリアの生命の奪われることが必要なのとすっかり同じじゃないか。
 だが、私たちは舞台へ登場した。

    二

 そこは妙な部屋であった。鰮《いわし》の罐詰《かんづめ》の内部のような感じのする部屋であった。低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭《かびくさ》い部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛《くも》の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯《とも》っていた。リノリュームが膏薬《こうやく》のように床板の上へ所々へ貼《は》りついていた。テーブルも椅子《いす》もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物《しゅもつ》ででもあるかのように、ジクジクと汗が滲《し》み出したが、何となくどこか寒いような気持があった。それに黴《かび》の臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇《かんけつ》的に鼻を衝《つ》いた。その臭気には靄《もや》のように影があるように思われた。
 畳にしたら百枚も敷けるだろう室は、五燭らしいランプの光では、監房の中よりも暗かった。私は入口に佇《たたず》んでいたが、やがて眼が闇《やみ》に馴《な》れて来た。何にもないようにおもっていた室《へや》の一隅に、何かの一固《ひとかたま》りがあった。それが、ビール箱の蓋《ふた》か何かに支えられて、立っているように見えた。その蓋から一方へ向けてそれで蔽《おお》い切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。何しろ可成《かな》り距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。
 私は、ブルブル震《ふる》え始めた。迚《とて》も立っていられなくなった。私は後ろの壁に凭《もた》れてしまった
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