ない。あの方はA嬢と仰有《おっしゃ》る私共の大切なお客様ですよ。お父様の病気見舞にいらしって、今日で既《も》う一週間も御滞在になっているのですよ。」と笑いながらいったが、フト声を落して、
「ところがお気の毒にも、お父様の容態は昨晩から急に不良《わる》くなって、今朝方とう/\お逝去《なくな》りになったのです。」といった。そして彼は宿帳を拡げて泉原の鼻先へ突出して見せた。そこには二十日程前の日附で、Aという人物の住所、姓名、が記されてある。泉原は自分の眼を疑うように、更めて宿帳を見直した。幾度見てもそれは彼が昨夕不在を訪問したA老人と同じ姓名で、而《しか》も番地さえ街の住宅と同一であった。
「A老人がお逝去《なくな》りになったのですって?」泉原は胸を躍らせながら早口に訊《たず》ねた。
「そうです。最初はそれ程お不良《わる》いとも見えなかったですが、もと/\心臓はおよわかったようです。昨夜は倫敦《ロンドン》から奥様と甥御さんがおいでになって、附切りでご看護をなすっておられたです。」と支配人はいった。
「それは気の毒ですな。旅先でお逝去りになったのでは、お嬢さんは嘸《さぞ》お困りでしょう。」ギ
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