私の傍を通過ぎた時、軽い音を立てて床に落ちたものがあった。それは目の覚めるような緋房のついた小さな象牙の扇子であった。私は素早く手を延して拾い上げると、背後で、
「お嬢様、お扇子が……」という老婦人の声がした。先に立った女はツと足を停めて振返った。彼女は美しい口許に微笑を浮べながら、私の差出した扇子を受取って、
「有難う」と仏蘭西語でいった。老婦人は乳母か、家庭教師か、二人は軽く一|揖《ゆう》して廊下の外に姿を消してしまった。
 柏は私の引止めるのもきかず、間もなく、そそくさと帰っていった。
 柏に置去りを喰った私は勘定を支払って食堂を出た。食後の葉巻に火を点けて、高い廊下の窓から、火の海のような市街の光景を見下した。まだ時間は早かったし、それに飽気なく柏が帰ってしまったので、どうしても此儘、寂しい川岸の下宿へ帰る気になれなかった。目の下の大通りを数限りない自動車や、乗合自動車《バス》が右往左往に疾走ってゆく、両側に立並んだ、明るい飾窓《ショーウィンドウ》の前を、黒い人影が隙間もなく、ギッシリとかたまり[#「かたまり」に傍点]合って、宛然、黒い川を押流したように、動いている。じっと心を
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