杯をもった手を何時までも宙に支えている。
「オイ、どうした。何を呆乎《ぼんやり》している」私は小声でいった。
「素敵だ。俺の探していた通りの顔なんだ」柏は呻くようにいった。
「冗談じゃアない。近所の人がじろじろ見ているじゃアないか、見っともないから止して呉れ」と私は慎《たしな》めたが、柏は耳にも入れず、
「まア、鳥渡見ろ、この卓子の五列目で、君の真背後なんだ。ロゼッチの『愛の杯』から抜出してきたような美人だ」と熱心にいった。
如何に「愛の杯」から抜出したような美人であろうとも、私には真逆、無遠慮に振返って見るほどの興味はなかった。
やがて食事が済んで、珈琲が運ばれた時、柏は突然私の肘を掴んで、
「『愛の杯』が席を立ったよ。僕は帰る、左様なら」といいながら気忙しく立上った。
「まだ、これから計画があるんだ。今から帰ってどうする」
「あの顔の印象が薄れないうちに、家へ飛んで帰って仕事にかかるのだ。徹夜だぞ」柏の言葉の終らないうちに、私は背後に軽い絹擦の音を聞いた。と見ると、裾に銀糸で渦巻模様を刺繍した真黒な琥珀《こはく》の夜会服を着た若い女が、卓子の間を縫って静に歩いてきた。丁度彼女が
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