上に仆れていたあの男だ! 私は思わず足を停めて声をかけた。男はチラと振向くなり、逃げるように立去ってしまった。私は三階へ馳上った。
「今出ていった男は何だ、何しに来たのだ」
 私は何より先に問いかけた。
「あれか? 別に僕の絵が欲しいようでもないが、僕の出品した例の『歓の泉』を激賞して、モデルは何処からきたかなどと頻りに訊いていたっけ。矢張り僕と同じく彼女の崇拝者かも知れない」
「僕もあの絵を観てきた。近来の傑作だね。君は今朝も会場へいっていたんだってね。一足違いだったよ」
「会場へなんかまだ行くものか、昨日は風邪をひいて臥ていたし、今日は出掛ようとしているところへ、あいつ[#「あいつ」に傍点]が来たんで……」
 柏の言葉が終らないうちに、けたたましく呼鈴が鳴った。窓際に立っていた私はカーテンの陰から下を覗くと、玄関の石段の上に制服巡査と、大黒帽を被った自動車の運転手らしい男が立っていた。それは先夜彼女を乗せて逃した折の、自動車の運転手であった。
「これはいけない、何処か隠れ場所はないか、屋根裏? 便所?」私はオロオロしながら叫んだ。

        七

 呆気に取られている柏を押
前へ 次へ
全65ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング