裏に踏かくされてしまった。その緋房がどういう理由でガスケル氏の手許にあるのであろう。
老人は不興気な様子で、探るように私の眼を凝視ていたが、じき穏かになった。老人の態度が異様であっただけに、私はその謎の緋房に就いて、一層疑惑の念を高めた。
私はそれから三十分後に、ボンド街Xギャラリーへ入っていった。妍爛《けんらん》目を奪うような展覧会の、奥まった三号室へ入ったとき、一番最初に目についたのは「歓の泉」と題する柏の絵画であった。それは柏の所謂「愛の杯」から其儘抜出してきたような彼女が白衣の軽羅《うすもの》を纏って、日ざしの明るい森を背にして睡蓮の咲く池畔に立っている妖艶《ようえん》な姿であった。サボイの食堂でたった一目見た印象から、まるでモデルをつかって描いたように、斯くまで描上げた柏の伎倆に私は感嘆した。柏を探したが見当らないので、係員に訊ねると、
「毎日自分の絵を見に来ている、あの日本人の画家ですか、それなら先刻帰りましたよ」
私は男の言葉を背後にきき流して直に柏の宿へ向った。玄関へ入ると出会頭に鼠色の中折帽子を被った男に擦違った。彼だ! サボイ劇場で見掛け、一〇一番の家で椅子の
前へ
次へ
全65ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング