の家に雇われた時の約束を思出して躊躇した。それっきり、跫音も咳《しわぶき》もパッタリ歇んでしまったので、思返して部屋へ戻って、毛布の中へ潜込んでしまった。

        六

 翌日は朝から陰鬱な雨が降っている。雇婆さんが朝飯を食卓に乗せて私の寝室へ運んできた。
「旦那様はまだお加減が悪いので、食堂へはおでになりませんから、貴殿はここで召上って下さい」
「そんなに悪いのですか。昨夜は遅くまで起きていらっしったようですが、医者でも来ていたのですか」
「医者などは来る筈はありません。御主人は医者が酷くお嫌いなのです。昨日は日が暮れると、じきにお臥寝《やすみ》になってしまいましたよ」
 婆さんは私が夢でも見たのだろうというような顔付をして、卓子の上へ食事をおくと、さっさ[#「さっさ」に傍点]と部屋を出て去った。
 どう考えてもこの婆さんは単なる普通の雇人ではなかった。私はこの家へ来て以来、幾度となくこの老婦人と顔を合せたが、老婦人と主人のガスケル氏が話をしているのを一度だって見掛けた事はなかった。それでいて婆さんはいつも老主人の意志を私に伝えている。その日も食事を済してから主人の病気を見
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