ては、私には現世に何のひきつけるものはない。おこの沙汰ではあるが、私は奇《あや》しきまでに女の美しい姿に引つけられた。私はどうしても彼女を尋ね出そうと堅く決心した。
 夜中に一度目を覚した。戸外にはいつか風が出て裏庭の木立を騒がせていた。私は枕をかえして寝返りをした時、墓穴のように静まりかえった階下で、誰かが咳をするのをきいた。続いて床を歩く人の跫音がした。マッチを摺って枕元の時計を見ると午前一時である。私は床の上へ起上って耳を欹《そばだ》てた。私はそっと部屋の外へ出て、階段の上から下を覗いた。寸時|歇《や》んでいた跫音がまた聞えてきた。怪しい物音に釣込まれて、私は怖々ながら一番下の廊下まで下りた。跫音は確に老人の居間から起った。老人の居間の扉の上のガラス戸に室内の電灯が明るく映っていた。夜前の雇婆さんの話によると老人は身体の工合が悪くて臥ている筈である。それを斯うした遅い時間に、而も歩行の不自由な※[#「やまいだれ+発」、348−1]疾者《インバリット》が起きて歩いているとすれば啻事《ただごと》でない。
「盗賊かな、それとも医者かな」私は念の為に老人の居間を検めて見ようと思ったが、こ
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