待てども、待てども柏は容易に帰って来ない。恐らく近所のカフェへ珈琲でも飲みにいっているのだろうと思ったけれども、気紛れな柏の事だから、カフェの帰りに何処へ飛んでいったか分らない。私は煙草を三本も四本も飲んでから、待ち倦《あぐ》んで戸外へ出た。
グレー街の家へ帰って、塵挨を被ったような電灯のついている暗い廊下を通って、主人の居間の方へ行こうとすると、階段のところで、バッタリ雇人の婆さんと顔を合わせた。
「そっちへいってはいけませんよ。旦那様はお加減が不良いとかで、今しがたお寝みになったところですよ」
「では明朝お目に掛るとしよう」私は二つの階段を上って、三階の寝室へ入った。
私は電灯を消すと、窓のブラインドを一ぱいにあけて、床へ入った。私は疲労《つか》れきっていた。それでいて頭脳は妙に冴返っていて、朝からの出来事が非常にハッキリと、そして素晴しい迅速《はやさ》で、次々と脳裡に映っていった。ああした事情で、親しく令嬢に会う機《おり》を喪ったけれども、彼女が一度でも自分如きに会ってやろうと思ってくれた事だけは確であったに違いない。それだけでも私は嬉しかった。
たった一つ彼女の事を除い
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