見えた。思切って電灯のスイッチを捻った瞬間、思わず声を挙げて後へ飛退いた。そこには紺サージの服を着た男が、仰向に椅子に凭《もた》れたまま、ダラリと四肢《てあし》を踏延《ふみのば》している。私は少時、棒立になって立竦んでいたが、怖々ながら側へ寄って顔を覗込んだ。男は先夜サボイ劇場で、私の隣りにいた肥った中年の仏蘭西人で、後頭部を椅子の角へ凭せかけて口から涎を流している。私はこの有様を見て、何故この家の人達が姿を隠したかが朧気ながら首肯《うなず》かれるように思った。この仏蘭西人はこの家の歓迎されない不意の訪問客であったに違いない。先夜サボイ劇場で彼等仏蘭西人が密談していた事実に徴しても男はこの家の喜ばれない客である事は明白である。そして予め来訪が分っていたならば、五時半のお茶に私を招待する筈はなかった。部屋にはこれといって目星《めぼ》しい調度はない。卓子の上に灰皿と煙草があった。男の足下に新聞と、立消えになった巻煙草の呑さしが落ちている。その吸殻と卓上の煙草とは同一のマークがついている。吸殻は黄色く燻ぶっていた。煙草に魔睡薬が仕込んであるに違いない。私はそれを自分のポケットへ蔵《しま》った
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