グレー街のガスケル家に劣らない程、寂かな家だ。広い一〇一番のこの家は、現世にたった一つ取遺された建物のように深い寂寞のうちに沈んでいる。
 置時計の単調な針が進むにつれて、湿っぽい夜気が犇々と迫ってきた。
 五時十分にコトコトと階段を下りてくる靴音をきいた。私は救われたように椅子から立上ったが、靴音は書斎の前を通り過ぎてフット消えてしまった。何処かで扉の閉る音がした。
 夫《それ》から又、永い三十分が過ぎた。私は耐らなくなって、扉をあけて廊下へ出ると、恐る恐る正面の階段を上っていった。二階にも三階にも三つずつの部屋がある。私は一つ一つ扉を叩いて部屋を覗いて見たが、誰もいない。三階は殊に家具のない裸部屋であった。二階の表部屋だけに僅ながら暖炉の石炭が燃えている。急に逆《のぼ》せ上ったように顔が熱《ほて》ってきた。私はこま[#「こま」に傍点]鼠のように、階段を上ったり下りたりして家人を探そうとした。ある恐ろしい予感が私の心にかげをさしていた。私は最後に残された玄関わきの暗い客間へ入って見た。其処にも人のいる気配はなかったが、暖炉の前の長椅子に何か置いてある。窓外の薄明りに、黒い輪廓が
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